2021/05/19
「演奏に心をこめて」の意味がわからない。先日、とある方のこんな疑問を偶然拝見しました。確かに、あいまいな表現で漠然としており、どうすればいいのかわかりにくいですね。そもそも、演奏以前の問題として、果たして心って何なのか?ということからして疑問です。こういった問題を考えるに際しては、数多の先人の知恵を借りるのが良いです。というわけで、今日は哲学的思考を借用して、音楽に心をこめるにはどうすればいいのか、を考えてみたいと思います。
あらかじめ結論を申し上げると、下記3つです。それぞれは排他的かもしれないし、高次では共存可能かもしれません。
・他者に心の存在を信じるかのように、音楽に心がこもると信じられるような演奏をする。
・授かった音楽をただ演奏する。我々が心をこめようとするまでもなく、音楽はすでに祝福されている。
・音楽にこめるべき心は存在しない。呪詛と忍耐とともに演奏する。願わくばその先に肯定があらんことを。
これだけ見ると、禅問答のようなもので何のヒントにもなりません(笑)。そのやり方を聞いとるんじゃボケー!てなもんですが、そんな直球の回答は本稿に登場しません。それでもこのまま長文にお付き合いいただければ、その思考の結果として、音楽の見方や捉え方が少し変わり、ほんの少し深くなるかもしれません。哲学の価値は、そのエッセンスをもって自ら考える過程にあると思います。
キーワード:どこでもドア 哲学的ゾンビ 永井均 神だけがなしうる仕事 スピノザ 神あるいは自然 ニーチェ 神は死んだ
あ、念のため、私は大人になってから哲学に興味を持ち入門書の類を読み始めたもので、系統だった勉強などはしたことがありません。なので内容は「私の理解するところの〇〇」程度のものです。。さて、本編はドラえもんのどこでもドアから始まります・・・。
どこでもドアで移動した『僕』は本当に『僕』なのか?
「あ、あの・・・ドラえもん、ちょっと、聞くけどさ、このどこでもドアって、どんな仕組みなの?」
ドラえもんはこう説明した。
今、自分の部屋にある「どこでもドア」を A とし、移動先の学校にある「どこでもドア」を X とする。まず、「どこでもドア A」 を通り抜けた人間は、その体を分子レベルでスキャンされ、その「分子構造」の情報が、移動先の「どこでもドア X」 へと転送される。そして、「どこでもドア X」 の方で、転送された情報をもとに、一瞬にして、その「分子構造」を再現する。

「つまり、 ドア X では、キミの肉体が再現されるというわけなんだよ」
「あれ?じゃあ、この ドア A を通り抜けたボクは、どうなるの?」
「分子破壊光線で、コナゴナ。一瞬にして、消え去るよ」
「えええ!?ちょ、ちょっと待ってよ、それって、ボクが死ぬってことじゃないの?」
「違うよ、向こうの ドア X では、キミがちゃんと生きていて、学校で授業を受けるんだ」
「いや、それは違うでしょ!だって、『このボク』のこの体が、消えるんだよ!」
思考実験(2)どこでもドア - 哲学的な何か、あと科学とか
http://noexit.jp/tn/doc/sikou2.html
この問題を読んだ皆さんは、どう感じられるだろうか。ドアをくぐる前ののび太とドアの先から現れるのび太は、同一人物なのだろうか?この問題を考えるにあたってのポイントの一つが、心とか魂と呼ばれるものなので、後から詳しく触れる。ここでは、似た状況は音楽においてすでに生み出されている、と言うことをまずは語りたい。録音と再生である。