2020/04/10
毒にも薬にもなる演奏がしたい
『毒にも薬にもならない』と言う言い回しがある。無害である代わりに、役にも立たない、という意味だ。
音楽って何なのか、と言うことを最近よく考える。元々考えていたのに加えて、本ブログを本格的に発信するようになってから、余計に考えるようになった。
音楽と文章は驚くほど似ている。いや、驚くほど、どころではない、事実驚いている。
何を取り扱うか、何を伝えたいか。なぜ伝えるのか。
そこに文法的正解はあるのか、それとも好き嫌いしか存在しないのか。先駆者が、あるいは権威のある人が既に発信済の内容を、後追いで発信することに意味はあるのか。
これらはすべて、「文章」としても「音楽」としても成り立つ。人間を人間たらしめる要素の重要な1つは、このメタ的視点だ。音楽を通じて考えたことは文章にも還元できるし、その逆もまた然り。このブログに注力を初めてから、昔は「痩我慢」や「強がり」でしかなかったところの「自分の音楽」なんてものに、肌触りを感じられるようになってきた。
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昔は、嫌われたくなかった。みんなに受け入れて欲しかった。正解があると思っていた。だから怖かった。今は、「自分らしい」と言うだけでことで自分を許すことができているのかもしれない。
もちろんみんなに好かれる演奏はしたい。みんなが気に入る文章が書きたい。でも、嫌われることを恐れていると、その表現は存在する意味を失っていくだろう。それならば、毒にも薬にもなる方がいいのではないか。
パリで音楽修行中のクラシックギタリスト秋田勇魚さんが、Twitterで興味深い発信をされていた。『海外に留学して音楽を学ぶことを決めたのはどのような経緯、理由からですか?』と言う質問への返答。『たとえば、日本で蕎麦を食べたことのない外国人の落語を聴いてみたいと思いますか??』
なるほど、確かにそうだ。素晴らしい視点だ、と心の底から感心する。優れた(と言う表現が正しいかはわからないが、便宜上もちいる)落語には、蕎麦の美味しさや啜る食べ方を経験することは必須のように思う。頭をガツーンと殴られたようなショックを受けた。
けれど、その衝撃から一度冷静になって考えてみる。日本に来たのことのない外国人が、フォークに巻いたパスタを食べる落語をしている。正座の代わりにあぐらをかいて高座に出てくる。それはそれで面白いのではないだろうか。その落語で真打ちになることはできないかもしれないけれど、別に目くじらをたてることでもなく受け入れられる気もしてくる。
いろんな視点や感覚があっていいし、それを他人が咎めることもない。留学留学をされた秋田さんの決意や行動力はもちろん素晴らしいし、尊敬する。ただ、日本でパリの音楽を弾くことは別に卑下することではない。
ただ望むことは、自分の弾いた音楽が誰かの胸に届くように。それだけを深く突き詰めればいいのではないか。そんなときに、「誰にも嫌われたくない」と言う思いは、場合によって邪魔になるのだろう。自分が本気で好きな表現を、真っ直ぐに届けたい。そのためにこそ、努力をしよう。毒にも薬にもなる演奏がしたい。
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