①無我夢中の時代
ギターを弾き始めた頃。X Japanのギターソロ聞いてエレキ最高!から、ヨークやディアンスを聞いてクラシックギターカッコええ!となった頃。誤解を恐れずに言ってしまえば、何も考えていませんでした。別にそれが悪かった、という気もありません。聞いたもの、自分が弾いたものが全て、かっこいいと感じたものを思ったように弾く。それは1つの、そしてある意味究極のあり方です。
演奏に裏付けがあろうがなかろうが、そこに確かにある『こう弾きたい』は最も強かった。ありのままの自分の演奏を肯定する感覚というのは、若さ故の特権とも言えるかもしれません。ただし、その裏には無数の「こう弾けばもっと魅力的じゃないか」「こうすれば楽に、間違いを減らして弾けるのに」が隠れていたこともまた間違いのない事実です。
②ギターに教わる時代
社会人になり手工ギター(
野辺雅史)を手にした私は、その響きから多くを教わることになります。今まで固まりで漠然としか捉えられていなかった響きから、内声を聞き分けることができるようになったのです。これまで気づいていなかった旋律に、ギターを弾くことで気付く。ギターが弾き手を成長させてくれることを実感した時代でした。
③脳内演奏の時代
社会人生活が忙しくなると、ギターを弾く時間を取ることが難しくなってきました。そんなとき、「ギターを持たなくても頭の中で曲は演奏できる」と師匠に言われたことが大きな転機となりました。それまで、ギターの練習はギターに触れないとできない、と無意識のうちに思い込んでいました。けれど、確かにギターを持たなくても頭の中でイメトレはできたのです。むしろ、その時間を大切にすることで、頭の中で最初から最後まで弾けるようになることで、本番で楽譜をど忘れすることはほとんどなくなりました。
④楽譜に教わる時代
そんなこんなでギター生活を続けていけると、ギターを持って演奏しなくても、楽譜から隠れた旋律やメッセージを受け取ることができるようになってきました。それまでギターで弾いて耳から入ってくることで理解していたものを、音符から気付く。それを表現しようと演奏し、さらに耳から聞いてフィードバックをかける。そうやって、自分なりに楽譜という教科書の使い方を学ぶようになりました。現在の私は、この環境です。
分奏の大切さに気付いたのも、最近です。「単音旋律の演奏で表現できないものは、和声や複旋律で表現できる訳がない。まずは分奏の練習をしなさい」。
福田進一先生のマスタークラスで繰り返しお教えいただいたこの内容も、大きく響きました。確かにそうだ、ギターというのは一人で重奏をしているようなものだからして、まず一人でソロパートを演奏できるようにならないと全体としての方向性が出るわけはない・・。
⑤楽譜を越えて
「分奏で弾けないものは和音で弾けない」。この事象と同型であれば、次のような命題も仮定できます。「頭の中で想像できない表現は、実際に演奏することはできない」。頭の中で想像していないものがもし現実に現れてくれるとすれば、それは曲がその力量において先導してくれる、あるいはギターが自然と歌ってくれるものに限られるのではないか。これまで私が演奏で表現していたものは、「私が自発的に想像し創造した」と言うよりも「曲とギターのおかげで勝手に表現されていた」と言うのが近かったのではないでしょうか。それに対して、魅力的な演奏をする人たちは、もっと自らの音楽を自分の中で作り上げている。音楽を表現する手段がたまたまギターであった、そんな境地なのではないか・・。
「言葉の限界が世界の限界を規定する」ウィトゲンシュタインの有名な言葉です。これは哲学的な思考を示したものですが、そのまま芸術にも適用可能なのではないでしょうか。自分自身で欲する表現を想像しない限り、音楽は曲とギターの示す世界の殻を打ち破ることはできません。私はこれまで、曲とギターに甘えていたのでしょう。―ドとミを鳴らせば、長和音の響きになる― そんな当たり前に委ねるのではなく、「明るく力強い響き」や「明瞭でしかし切ない音」、そう言った可能性を想像し、自分で欲するべきでした。そうすることで、音楽の可能性を拡げなくてはならなかったのです。
―われ欲す―これこそが、私が今なそうと考える変化でした。これはどこかで聞いたことのある言葉です、、そうです、ツァラトゥストラでニーチェが述べた精神の三段变化、駱駝・獅子、そして子供と変化する精神の、獅子の精神そのものです。
子供から駱駝へ、獅子へ、そしてまた子供へ…
こうして振り返ると、私のギター半生は、自身のありのままを肯定する子供の状態から始まりました。そして、楽譜を学ぶことで駱駝の精神に、楽譜の示す「汝なすべし」に従っていたのが昨今だったように思います。これから私は、「我欲す」を叫ぶ獅子に変わらねばなりません。自分自身の音楽を想像し創造することにより、世界の規定を打ち破るのです。
しかし、将来的にはここからさらなる転換をが想定されます。獅子を超えて子供の精神へ。ただそこにある音楽をそのまま肯定する無邪気さ。
何ということでしょう。私は長い時間を経て、ギターを始めたあの頃の心境にまた舞い戻らないといけないのです。私は無駄な道のりを歩いてきたのか、遠回りをしていただけなのか、、 いえ、この道中は決して無駄ではありません。例え一見同じ「子供の精神」であろうと、そこに現れる音楽はきっと違ったものになっているはずです。そう信じて、今は自分の欲する音楽をイメージしていきたいと思います。その先で、ただただ自らの感性に従って曲を弾いていたあの頃のような、子供の精神に立ち返っていければ。
精神の三段変化
最後に、私の人生の携行書となっている名著、「これがニーチェだ」の序文より、「ツァラトゥストラはこう語った」の永井均訳を引用します。興味の湧いた方は、ぜひ手に取ってみてください。哲学は、自分の人生の問題に対して解釈を適用した時にこそ、その真価を発揮するのですから。
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https://asao-guitar.com/e/soul-of-music 私はあなたがたに精神の三段の変化を語ろう。いかに精神が駱駝となり、獅子となり、最後に子供となるか、を。
畏敬の念をそなえた、強くて、忍耐強い精神にとっては、多くの重たいものが存在する。その精神の強さが、重いものを、最も重たいものを、求めるのだ。
(中略)
何が最も重たいものか、英雄たちよ?と忍耐強い精神は問う。私は、それをみずからに引き受け、自分の強さを喜びたいのだ、と。
(中略)
最も重いものとは、認識の樫の実をかじり、草の根を口にして、真理のためには魂の飢えにも耐えることであろうか。
(中略)
しかし、このうえなく孤独な砂漠の中で、第二の変化が起こる。精神はここで獅子となる。彼は自由をわがものとし、自分の砂漠の支配者になろうとする。
自分を支配する最後の者を、彼はここで、自分のために捜し出す。精神は彼の最後の支配者、彼の神を相手取り、この巨大な竜と勝利を書けて闘おうとする。
精神がもはや支配者とも神とも呼ぼうとしないこの巨大な竜とは何か。その名は「汝なすべし」。それに対して、獅子の精神は「われ欲す」と言う。
(中略)
竜は言う、「すべての価値はすでに創造されてしまっており、そのすべての価値―それは私だ。じつのところ、もはや『われ欲す』など存在してはならないのだ!」と。
(中略)
新しい価値を創造する―それは獅子にもまだできることではない。だが、新しい価値の創造のための自由を創造すること―これは獅子の力でできることだ。
自由を創造し、義務に対しても聖なる否を言うこと、わが兄弟たちよ、そのためにこそ獅子が必要なのだ。
(中略)
しかし言ってみよ、わが兄弟たち、獅子にさえなしえぬどんなことが、子供になしうるのか?どうして強奪する獅子たちがさらに子供にならねばならないのか。
子供は無垢であり、忘却である。新しい始まりであり、遊びである。自らまわる車輪であり、自律運動であり、聖なる肯定である。
そうなのだ、わが兄弟たちよ、創造の遊びのためには、聖なる肯定が必要なのだ。精神はここで、自分自身の意思を意思するようになる。世界を喪失していた者が自分の世界を獲得するのだ。
(これがニーチェだ、永井均、講談社現代新書P16-P18)
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