けれども、大多数の人と意志疎通を図るために、言葉は大切なものを置いてきてしまった。それは個々人の「経験の唯一性」だ。「青い」「悲しい」と聞いて、この言葉の意味をみんなすぐに思い浮かべられるだろう。しかし、誰しも一度は疑問に思ったことがあるのではないだろうか。「私の青とあの人の青は同じなのかな」「私のこの悲しみって、他の人に本当に伝わっているのかな」と。私というたった一人の人間が、いま現に感じているこの感覚の唯一性は、簡単に言葉にして、簡単に他人に伝えることができるのか?
これは、本質的には言葉では伝えられない、と言うのが私の考えだ。例えば今、誰かが恋人と破局を迎えて悲しんでいるとしよう。この「悲しみ」は、飼っていたペットが亡くなったときの「悲しみ」とは違うし、電車に乗り遅れたときの「悲しみ」とももちろん違う。たとえ「恋人と破局した」と言う修飾で条件を限ったとしても、高校生のときに初めて付き合ったあの子と別れたときの「悲しみ」と、社会人になってからずっと付き合っていたけど、遠距離が原因で話し合って別れることに決めたときの「悲しみ」はやっぱり違う。では、もっと修飾を・・と続けていっても、そんなことではこの「悲しみ」を正確にすることはできない。
人と表面的に分かり合いたいだけならば、これらを全て「悲しい」の一言で表せるのは非常に便利だ。様々な状況を一般化し、平均化して伝える。これが言葉の持つ効果であり真価だから。けど、その言葉の裏に合った経験の唯一性、本当に大切だったことは忘れ去られてしまう。
そこで、言葉を越えるための方法が芸術である、と私は思う。私がまさに感じた「この悲しみ」「あの喜び」を、言語のもつ一般化作用なしで表現できる、これこそが芸術なんだと思う。この意味で、「即興音楽」が奏でられる人は本当にうらやましい。でも私にはそんな能力はない。気持ちを絵画に表すこともできない。だから、ギターを抱える。そして、誰かが書いてくれた曲に自分の気持ちを託し、演奏するのです。
こう言った意味で、私は曲をかける人を本当に尊敬するし、感謝もする。しかし、その尊敬の念を持った上で、あえて誤解を恐れずに言うならば、「それでも曲は演奏する人の自由だ」とも思う。
曲の解釈法を勉強することは大切だ。作曲者の意図を無視することはもちろんいいことではない。けれども、それでも、この曲のこの部分をこう演奏したくなったと言う場合に、その思いは誰にも止められないし、非難できないのではなかろうか(例えそれが好みでなく不快だとしても)。そもそも、曲に対して解釈や演奏法が厳密に定義されてしまうなら、複数の演奏は必要なくなる、とも言える。「正しい演奏」が唯一あればいいことになるし、もっと言うならば楽譜だけあればいい。それを眺めて、頭の中で「正しい演奏」をイメージして幸福に浸っていればいいことになる。でも、そんなことは私が音楽に求めることじゃない。
「私は悲しい」と暗いトーンでつぶやくのが相応しいような言葉でも、そらに向かって「くそー!悲しい!!」と叫びたいときだってあるだろう。そんなところで正しさなんて言われても心に響かないし、文法の説明をされても困る。
こんなことを思って私はギターを弾いています。もちろん、音楽理論はもっと勉強したい。演奏の上のテクニックも磨きたい。好き勝手にやってればそれでいいのではないし、大勢の人に感情が伝わる演奏をするには、そのための方法を勉強しなければならない。そのことは理解はしているつもりです。けど、一番肝心なところは忘れずに。勉強しすぎて音楽から唯一性を奪ってしまったら、なんのための演奏かわからない。
クラシックギターと言う楽器はいいですよ。楽器全体を抱いて、体で支えて演奏するんです。指で押さえて、爪で弾いて音を出すんです。人に寄り添った、感情に素直な楽器なんです。自分なりの思いを乗せて演奏ができたら一番素敵です。
<あとがき>
・・色々思いつくままに書いていたら長くなりました。
難しいこと書いたけど、結局は「ギターが好きだ」につきるはずなんですけどね。もっとうまくなりたいとか、もっと勉強しなきゃ、練習しなきゃとか、でも上手な演奏と心に響く演奏はべつなんだとか。そう言うことを自分なりに考えてきていたので、まとまっているかはともかく書いてみてすっきりです。ただ、書き始めたときには残っていた酔いが書いてる間に冷めたので、この記事をアップしようと決意したときの熱意はなくなっちゃいました(笑)。まあ勢いでかけてよかったかな。
2010/12/23 初投稿
2020/9/17 微修正再投稿
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