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空白の3ヶ月 阪神大震災後の記憶

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 いま、外出自粛で苦しんでいる。私も辛いし、家族も辛い。状況を理解する大人ですら辛いのだ、ウイルスって何なのかもよくわからないまま、ある日急に学校にいけなくなった娘たちはもっと辛いだろう。

 実は私も、中学一年生のときに辛い体験をした。阪神淡路大震災である。あの地震で、私の住んでいた家は半壊した。半壊とはいえ、居間から壊れた床を通して地面が見える状態だった。全壊認定して見舞い金くれや、と思った記憶がある。

 そもそも枕元のタンスが倒れて来ていたら私は死んでいた。家が狭すぎてタンスが倒れることすらできなかったので命拾いした。狭い家なのに外に出るのに10分ほどかかり、ガラスの破片で足の裏を切った。やっと外に出て少し落ち着いた後、呆然とする母に私は聞いた。

 「学校どうやって行こう?」 ・・そんなこと言ってる場合かとめちゃくちゃ怒られた。そして実際、そんなこと言っている場合ではなかった。当時私は電車を利用し50分ほどかかる私学に通っていた。その電車が走らない。走れない。春まで学校は休みになった。
 その間、私の家族は親族の家に1週間ほどお世話になった後、別の狭い賃貸を借り引っ越すことになる。なんて言うと元々広い家に住んでいたようだが、別に引っ越す前の壊れた家も狭かったのでそれは何も変わらなかった。

 初日の登校日は、電車と代替バスを乗り継ぎ学校まで半日かかった。学校は神戸市灘区にあり、近づけば近づくほど光景が異様になり、泣きそうになったのを覚えている。その後も、しばらくは片道3時間以上かけて学校に通う日が続く。能勢電に乗り、JRに乗り、阪急に乗り代替バスに乗りまた阪急に乗る、みたいな期間もあった。中学生のときによくやったものだと思う。


 さて、今回話したかったのは、その通学の過酷さではない。地震のあと学校が再開され通学が始まるまでの2~3か月、私は何をしていたのだろうか?それが思い出せないという話だ。そう、記憶にないのだ。

 人間辛いことは忘れることで生きていく、と聞く。だからなのだろうか、貴重な青春の時期に学校に通わなかった日々のことを、残念ながら思い出せない。

 と、この記事を書きながら1つ思い出したことがある。このときの仮住まいは狭く、その後また引っ越すことも明らかであったため、持っていく荷物は最小限にしていた。そんな中、父親にお願いして取りに行ったものがある。それが、ギターだ。

 当時私が弾けたのは、吉田拓郎の弾き語りと、禁じられた遊びくらいだったはすだ。また、ギターを人生の趣味とする気概はまだ持っていなかった。それでも、父親にお願いし、車に乗ってギターを取りに行った気がする。なぜギターが欲しかったのか、わからないし、そのギターをどれだけ弾いたかも覚えていない。めちゃくちゃ弾いていたかもしれないし、飾っていただけかもしれない。いずれにせよ私は、「必要最低限のものにしよう」と言われた仮住まいに、クラシックギターを持っていったようだ。

 その後、時は流れた。恐ろしいほど流れた。私はお腹の出たおじさんになり、あいも変わらずギターを続けている。いつの間にか2人の娘も小学生となった。私はやっぱり、ギターを弾いている。いま、彼女たちは怯えている。友達と遊びたいと訴えるし、コロナのニュースを付けるのを止めてと言う。

 このままでは、彼女たちの大切な日々が、空白になってしまうかもしれない。それを大切な愛おしい時間にしてあげるのが、親の役目なのだろう。「あの時期お父さんも家でずっと仕事してて、毎日晩ご飯一緒に食べれてよかったよね」「意外とたくさん散歩に行けて楽しかったよ」何年か後にそんな話ができればと願う。

 ちなみに、私の両親はいい人達なので、私の空白の3ヶ月の間も、当然私のことを大切にしてくれていたはずだ。今度あったら、「あの時って何して暮らしてたんだろう?」と聞いてみようか。ギターを弾いていたのか、ファミコンをしていたのか。

後書き
その当時のギターはこちらに書いているYAMAHAのギターで、今も実家に飾ってあります。
https://asao-guitar.com/e/yamaha-sakurai
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