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星の友情

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 いつまでも終わらないのではないのかという気にすらなった暑い夏もいつの間にか過ぎていき、朝晩は肌寒いほどになってきました。先の見えないこの時世ではありますが、私は、特に変わらない部分と、変わってしまった部分とを抱えながら日々を過ごしてます。

 私は司馬遼太郎が好きで学生時代よく読んでいました。彼は志について、小説「峠」の中で主人公の口を通し次のように述べています。

 志は塩のように溶けやすい。男子の生涯の苦渋というものはその志の高さをいかにまもりぬくかというところにあり、それをまもりぬく工夫は格別なものではなく、日常茶飯の自己規律にある、という。箸のあげおろしにも自分の仕方がなければならぬ。物の言いかた、人との付き合い方、息の吸い方、息の吐き方、酒ののみ方、あそび方、ふざけ方、すべてがその志をまもるがための工夫によってつらぬかねておらねばならぬ、というのが、継之助の考え方であった。

(峠)



 この言葉、いつ読んだのかはもうすでに忘れてしまったのですけれども、若かりし私に深く突き刺さりました。それはもう、歩き方から始まり箸の持ち方まで、自己規律の先においてやろうと決心するくらいのものでした。それから長い年月が過ぎ、いつしか私は変わりました。この言葉のことが日常生活から消えてしまうくらいには変わりました。今もまた、これまでの当たり前が通用しない世の中で翻弄されています。 

 私の所属している会社もコロナ禍の影響を受けており、この9月末をもって職場を離れる方がいらっしゃいました。長く同じ職場で働いた、これまで事業を支えてこられた方々を見送るのは胸が痛みます。『またいつかどこかで』そう言って別れても、そのいつかなんて来ない、そんなことは心のどこかでは理解しています。

 私はこのブログで、変わらずギターを弾いている自分を発信したいと思っています。今までも、これからも。学校も仕事も、趣味も何でも、移り変わっていくのは仕方がない、それが世の常です。けれでも、なにかの折に振り返ったとき、変わらないものがそこにあれば、その事実は私を安堵させます。

 ニーチェのアフォリズムに『星の友情』と言うものがあります。彼が、思想的に決別をしたワーグナーとの友情を振り返り記したものです。

 星の友情 ― 我々は友人であった。だが疎遠になってしまった。そうなるのが当然だったのだ。(中略)われわれはそれぞれの目的地と航路をもつニそうの船だ。ひょっとするとわれわれは再び出会い、あの頃のように一緒に祝祭をあげるかもしれない。 ― あの頃は、勇猛果敢なニそうの船は、一つの港に一つの日光を浴びて横たわり、同じ一つの目的地をめざしすでに目的地に着いたかのように見えていたかもしれない。しかし、やがて我々の使命の全能の力が再びわれわれを別れさせ、別の海洋、別の海域へと駆り立てたのだ。われわれはもう二度と出会うことがないかもしれない ― 出会うことがあっても、もうお互いを見分けることはできないだろう。さまざまな海と太陽がわれわれを別な者に変えてしまっているだろうから。われわれが疎遠になるしかなかったこと、それはわれわれを支配する法則なのである。まさにそのことによって、われわれはまた互いにいっそう尊敬しあえる者となるべきなのだ! まさにそのことによって、われわれの過去の友情の記憶がいっそう聖なるものとなるべきなのだ! おそらく、われわれのまったく異なる道筋や目的地が、その小さな一部として包まれるような、目に見えない巨大な曲線と星辰軌道が存在するはずだ ― こういう思想にまでわれわれは自分を高めよう! だが、こうした崇高な可能性の意味での友人以上のものとなるためには、われわれの人生はあまりに短く、われわれの視力はあまりに弱い。 ― だからわれわれは、地上では互いの敵であらざるをえないにしても、われわれの星の友情を信じよう。

(『悦ばしき知識』279章 永井均訳、これがニーチェだ(永井均)より孫引き)



 私は北極星になりたいとは言わないし、灯台になれるとも思いません。港になるどころではなく、流され彷徨う一艘の船でしかない。けれど、自分が自分である場所を示さたいし、せめて錨(いかり)のような何かは持ち続けたいんですよね。そしてそれを見た懐かしい友人に、お前まだここにいるのか、こんなもの大事にしてるのか、と呆れられながら、懐かしんでもらえたら嬉しいな、と思っています。
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