実は駐車場がある
阪急清荒神駅からみちなりに参道を登っていきますと、山門のすぐ近くの無料駐車場に到達します。混雑緩和のため年末年始は閉鎖され、代わりに出店がたくさん並んで賑わいますが、今日は駐車場に比較的車がきており、寺院自体は多少の人が見られました。とはいえ、閑散としていることに変わりはありません。公共交通機関は避ける。けれど、少しは運動や気分転換のために外出したく車を使って屋外施設に出かける。そんな人々の葛藤を垣間見た気がしました。ちなみに、下記参道案内図は、道を8割方登った後に登場しますので、初めて参道を上られる場合はあまり参考にできません。。まぁ、下り一方通行のことにも配慮しているのでしょう。。

詳細な案内図の代わりに、参道の途中に何か所か竜を模した簡易地図がかかっており、現在地と残り距離を知ることができるようになっています。これ、2-30年前はなかったと思うんですけど、いいアイデアですね。

人のいない山門を撮影できてしまった・・
実はこの山門、私の曽祖父が棟梁として建立したと聞いています。そう、あしゃお家はその昔、宮大工を仰せつかっていたとのことなんです!私の父はその血と才能を継いでいるようで、リタイア後の今も日曜大工を楽しくしています。私はギターに全ぶりしてしまいましたが・・。
こちらがその山門。普段は人が引っ切り無しに通っており、昼間に人のいない写真を撮ることができるとは思っていませんでした。今日は、1分も待っていたらこの人っ子一人いない状態になってしまいました。子孫としてこの記念写真を撮れたことは嬉しいものの、早く人の流れが戻ってほしい、と願わずにはいられません。

手洗い場も閉鎖中
『新型コロナウイルス感染症の拡散防止の為、手水舎の利用はご遠慮ください。』
この案内とともに、手水舎の水自体が抜かれ、またひしゃくも撤去。こんな光景初めてみました。。まぁ、確かに仕方がない、というか賢明な判断なのかと思います。さすがに神社の鈴や縄は撤去されていませんでしたが、私は触るのを遠慮し手拍でのお参りとさせていただきました。こんなときに祈ることは、世の安寧です。

※2020/11/3追記※
本日久しぶりに荒神さんにお参りしたところ、手水舎に水と柄杓が戻り、手が洗えるようになっていました。感染対策は引き続き行う必要があるものの、過度に怖れることのない形に戻っていくと嬉しいですね。

※追記ここまで※
昔に思いを馳せる
過去の記事にも書いたことがありますが、こういった場所に来て、昔に思いを馳せるのが私は好きです。この場所を開山した方々、山門を建てた曽祖父。今回、それに合わせて疫病と言うものに関して考えされられました。彼らはおそらく、周りの人々が、自分の家族や友人が理由もわからず倒れていく恐怖と相対していたことでしょう。
時の流れに想いを馳せる話いまでこそ、例えば日食は太陽/ 地球/ 月の並びによる自然現象だと皆が知っており、それを楽しむ余裕すらあります。しかしそのメカニズムが解明され周知されるまでは、日食は天変地異の一つであり、凶兆として恐れられていたといいます。それはそうですよね、昼間なのにいきなり天が暗くなり、太陽が欠けだしたら「神の怒りじゃ~」となるのが普通の感覚でしょう。
何をするのが正解かはわからないが、何をしてはならないかはわかる
今日、我々はウイルスという存在を知り、そのための対策をある程度は知っています。新型コロナウイルスのすべてのメカニズムはわかっていない。けれども、「何故か人が死んでいく恐怖」ではなく、COVID-19という敵と戦っていることは知っている。「何をすべきか」はまだ解明が進まないところもあるかもしれないけれど、「何をしていはならないか」はわかる。我々はいま窮地だけれど、まだ恵まれている面もあるでしょう。できることをするしかない。してはならないことはしない。それを肝に銘じ、またこれから乗り切っていきましょう。
さて、ここから話は少し変わります。清荒神清澄寺の話はいったんここで終わりますが、よろしければもう少しお付き合いください。
『神』に祈ると言うこと
私が好きな作家、永井均の著作に「
私・今・そして神 開闢の哲学」があります。ここではその第1章5節「神だけがなしうる仕事」を紹介します。なんなら全文紹介したいところですけれども、さすがにそれは控えます。。
永井は、「ロボットに心を与える/あるいは剥奪すること」に関して言及します。外見は人間と区別がつかず、人間がすることは何でもできるロボットを仮定するのです。そして、ある夜、哀れに思った神様がこのロボットに心を与えます。このロボットが翌日「今日からぼくは心があるんだぞ」と言ったら友人たちにどう思われるでしょうか。外見上識別できない、と仮定しているのだから、当然友人たちはその変化を区別することはできません。
だが、友人たちに識別できる変化はなくとも、やはり変化はあったと考えることはできる。少なくとも、ここまでの記述を読んだ読者の大半は、その変化の意味を理解したはずである。ロボットに心がある場合とない場合には違いがある、と思ったはずである。自分でその違いを区別することができなくても、そこには違いがあると感じたはずなのだ。つまり、これもまた「識別できないが理解はできる違い」なのである。
(中略)
人間に識別できない違いなどはないのと同じことだという立場も、十分に成り立つ余地がある。しかし、人間に識別できないという点こそが重要なのだ。もし神というものに固有の仕事があるとすれば、それは世界に人間には識別できない(が理解はできる)変化を与える仕事だからである。自然や人間にもできる土木工事(世界の物的創造)や福祉事業(心の慰め)は本来の神の固有の領分ではありえない。
だから、ロボットのこの変化を理解し、そういうことがありうると思った人は神の概念を信じているのであり、(識別できるかぎりではこのロボットと変わりがないはずの)他人たちに心があると現に信じている人は、神が現に存在していることを、つまり神の実在を、信じているのである!
私は他人たちに心があると信じているので、神の存在を信じていることになります。ここでいう『神』とは、あくまで概念上の『超越者』としての神であって、現存する宗教にとっての神とは同じではありません。けれども、私はこの考え方を知って以降、神や宗教というものを寛容に受け入れられるようになりました。それだけでなく、神に祈る、という行為と、他者を信じる、という行為に共通項を見出せるようになりました。
いま私は、はっきり言って新型コロナウイルスのために疲弊しています。外出をしてもよいのか、するべきではないのか。仕事の通勤はどうする。ニュースで「大丈夫っしょ」と言っている人に対するやるせなさを感じることも多いです。
そんな中、今日は運動のために地元の清荒神清澄寺にお参りしてきました。その道すがら、いろいろ考えながら歩き、とてもすっきりしました。どうにもできない災害、制御できない他者の行動。それらと同じようにいかんともしがたい自分の心。そんなものすべてに対する様々な思いをひっくるめて、静寂の中で神に祈る。そんな時間は、私の心にはっきりと一時の平安をもたらしてくれました。
自分にできることをする。その思いを携え、また明日からの日々を迎えます。
クラシックギターの印象が変わる!オススメのカッコいいソロ曲 7選PS(2020/05/16追記):
本日の「嵐にしやがれ」で、この「清荒神清澄寺」が取り上げられるそうですね!
「他のお寺でやってはいけないのに、清澄寺で許されていることとは?」と言うクイズが出題されるようです。
考えられる答えは・・
・拍手してよい(神社の方だけね!)
・賽銭を持ち帰って良いところがあり、その小銭を持っていると金運がアップする。次の参拝時に倍返ししないとバチが当たる?
・地蔵さんに水をかけていい(水掛け地蔵だけね!)
・仏像を撫でていい
とかでしょうか。
なんか自分の地元が紹介されるのって楽しみですね♪
(以下放送後の更新)
さて、クイズの答えは・・、
「お賽銭を持ち帰って良い」だったようです。面白いですね。皆さん、コロナ禍が過ぎたら、ぜひ遊びに来てください。
2020/3/29: 初投稿
2020/05/16: PS追記
2020/11/3: 手水舎の閉鎖終了を追記
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2020/03/30 18:23 by 編集