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「聞こえる音」が本当に全てか 人間の認識能力に関して考える

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本日の話は、耳に聞こえる音が本当に全てなのか、と言う、聞く人が聞けば呆れそうな内容。でもそれは決してオカルトではなく、一見非理論的なものを安易に切り捨てることへの警鐘なのであります。その話は、世界が存在してその認知器官が発達するのか、それとも認知器官があって初めて認識の対象たる世界が存在できるのか、と言う少し哲学的な話にも繋ります。


果たして糖分は甘いのか


 ハイキングで疲れたときに口にしたチョコレート。勉強で疲れた日に夜食代わりに飲んだココア。その甘さの美味しさに、体が救われるように感じた経験はないだろうか。この、甘さの元となる糖。砂糖はなぜ甘いのだろう。これは本当に甘いのか。当たり前だ、だって実際に甘いじゃないか。そう思った方。実はこんな説があるのをご存知だろうか。「砂糖は本来甘くも苦くもない。砂糖が人体に必要だから甘く感じるだけだ」。別の言い方をすれば、砂糖と言う物質を必要としない動物は、果たして砂糖を甘く感じるのだろうか、と言う問いかけだ。

進化心理学の考え方


 このような議論は、進化心理学と言うジャンルで語られる。進化の過程で、生存に有利な物質や環境を好ましいととらえ、自身を脅かす存在を避けるための能力を身につける。ここで言う能力とは、身体的構造や器官、感覚や判断など全てを含めたものだ。腐ったものは臭く、糖分は甘い。それは人間が進化の過程で得たものだ、と。この考えに基づくと、蜂はきっと蜂蜜を「甘く」感じているはずた。人間の「甘い」とは違っても、好ましい存在と捉えているだろうと考えられる。

 生物はそこに存在している世界を如何に解釈するのか、この問いに対し、淘汰を免れた生物が備えるべき能力、と言う進化論的な視点から考えるのである。


世界は光の三原色でできている?


 光は赤青緑の三原色から成り立っていることが知られている。この観点では、人間には「光を三原色で捉える」ことにメリットがあり、そのように視覚を進化させた、と言うことになる。これも確かに1つの考え方である。しかし、別の見方もしてみよう。何度かこのブログで紹介している、池谷裕二の「進化しすぎた脳」。この本に語られている、興味深い内容を紹介する。

 この三原色の原理って、ずいぶんと古い時代から人間はちゃんと知っていた。そして後世に「生物学」が発達して、目という臓器に科学のメスが入ると、なんとまあ、その赤・青・緑の3色にまさに対応した色細胞が網膜から見つかって世の中の人は驚いたんだ。「三色の原理は生物もちゃん知っていて、それに対応させて網膜を発達させたんだな。・・・人間の目とは、やはりうまくできているもんだなあ」と。
 でも、それってそんなに驚くべきこと?だってさ、ほんと言うとこれって当然なんだよ。光というのはもとと三原色に分けられるという性質のものじゃないんだ。網膜に三色に対応する細胞がたまたまあったから、人間にとっての三原色が赤・青・緑になっただけなんだよ。もし、さらに赤外線に対する色細胞も持っていたら、光は三原色じゃなくなるよ。


進化しすぎた脳 池谷裕二、講談社ブルーバックス新書 p129

 世界があって生物が認識するのではなく、解釈する器官があって初めて世界が存在できる、と言う立場だ。もちろんここにも、「それが存在に有利だったため生き残った」と言う進化心理学的な考え方がもちろんできる。ただし、世界の存在と観察者の解釈、どちらが支配的なのか、という点に対して別な光を当てている。

カントの比類なき洞察「経験を可能にする条件」


 経験一般を可能にする条件は、同時に経験の対象を可能にする条件である(カント入門 石川文康、ちくま新書)。世界が在って我々が認識するのではなく、認識する能力があって初めて認識される世界が同時に存在できる。これがカントの洞察の1つである。これは、池谷氏の脳科学の観点を哲学的見地から表した言葉になるだろう。世界は、認識するものがいて初めて存在できる。観察者が観測できない対象、あるいはそのルールから逸脱したものを、我々はそもそも認識できないのだ。

では、認識するとは果たしてどういうことか


 ここで、再び池谷氏の著作に戻る。ここには、右脳の第一次視覚野と言う部位が正常に働かなくなった人の話が載っている。

 人間の目と脳は半交差と言う構成をしている。視界の左側を投影する右網膜は右脳の視覚野に、視界の右側を投影する左網膜は左脳の視覚野に到達する。これは右目でも左目でも変わらない。つまり、我々がものを見るときは、右目にについても左目についても、左側の視界は脳の右半球で、右側の視界は脳の左側の半球で捉えている、と言うことだ。

 ということは、右脳の第一次視覚野が働かない場合、視界の左半分が見えなくなるわけである。この患者に対する実験の内容を引用する。

 その人でちょっと実験をしてみよう。「正面を見ていてください」とお願いする。この患者は右側はちゃんと見えるわけ。だから、その右側に赤いライトをパッと出して、「どこが光りましたか」と尋ねると、「ここです」と指すことができる。
 逆に、左側に光を出しても、どこが光ったかはもちろん、光ったことにすら気づかない。「いまどこが光りましたか」と訊くと、「わかりません」とか「光ってません」と返事が戻ってくるわけだ。でも強引に「あてずっぽうでもいいからどこが光ったか指してみてください。カンでもいいので」と言うと、驚くべきことに、ちゃんと正しく光った場所をきちんと当てることができる。
 目が見えていないのに、見えているかのように振る舞う。こういう現象を「盲視(BlindSight)」という。さらに、この患者は、単純に「どこが光った」という場所を当てるだけじゃなくてもっと興味深い反応を示してくれたんだ。
 まず最初にこの図を見せる。マンハッタンの高層ビルだ。そして次に左側の半分が壊れちゃった同じビルを見せる。患者にはそれぞれのビルの中心を見てもらう。患者は右の視界しか見えないから、このビルは同じに見える。
 実際に「どっちのビルに住みたいですか」って訊くと、患者は「同じだ」って答えてくる。でも、「まぁ、そう言わず、どちらかを選んでくださいよ」と促すと、「こっちには住みたくないな」と壊れたビルを指差すんだ。見えてないのに!


同、p135~p136、図の引用は省略



 これは、通常「人間が視認している」と考えられている以上の情報を、我々が「目」と言う器官から得ていることを意味する。我々は意識の上に現れない情報をも処理し、好き嫌いを判断する能力を持っているのだ。では、こう言ったこれまで「見えている」と捉えられていなかった情報は、どうやって評価することが正しいのか。私は専門家ではないので確定的なことは言えないものの、そこにはまだまだ研究の、そして議論の余地があるのでは、と勝手に信じている。

耳が認識するのは、本当に「聞こえる音」だけなのか


 この議論を聴覚に適応すると、問いはこう形を変える。一般的に「耳が聞こえない」と考えられている人にも、実は耳という器官を通じて感じ取ることのできる情報が他にあるかもしれないのではないか。「聞く」と言う行為やの裏には、耳という器官が獲得できる別の情報が隠れているのではないか、と。

 鼓膜からの振動を電気信号に変換する内耳の蝸牛。その構造は、対数分布の固有振動数を持つことが知られている。その意味で、対象となる音を周波数解析しログスケールで観測する、というのは「一般的な聴覚」を解析するうえでの極めて優れた方法だ。しかしそれは、網膜に赤青緑の細胞が存在することと同様に、「耳が可聴域を捉えられる」と言う事実の焼き直しに過ぎない。それ以上の何かを感じる能力を人は持たない、と言うことの証左とはならないのだ。

 サンプリングレートは44.1kHzでよいのか、48kHz必要なのか。ビット数はいくら必要なのか。こういった議論は、世界の成立と人間の知覚、と言うもっと根源的な議論を忘れ去っているように私には感じられるのである。人間の感覚とデジタルデータとの相関以前に、人間の感覚にはまだ秘められた能力があるように思う。


「非論理的」な感覚を切り捨てるな


 ここに来て話はようやくクラシックギターの話となる。例えば、音の分離を倍音の多少で語る。音量の優劣をデシベルで評価する。こう言った尺度自体には大いに賛成である。マイクとスピーカーを使い音の小ささを補完することも、積極的に検討すべきだ。ただし、「アイツは音の数値化もせずに感覚で語るなんて馬鹿げている」だとか、「お前はアナログだなぁ、もっと理論的に考えろよ。PAは必要であり十分だ」と思う人がもしいれば、それは危険である、と申したいのだ。

 違うんだ、科学的に解析されたことが全てではない。先程の盲視の実験。これは、脳の中の上丘と言う部位が影響することがわかってきている。けれども、一昔前なら、馬鹿げたこと、科学的に説明できないことだったろう。そのような、現代科学でいまだ説明できないことは、確かに存在することができる。

 例えば超能力者。彼の存在を理論的に批判することはできても、それの存在の不可能性を理論的に「証明」することはできない。だって彼はそもそも、論理的な存在ではないのだから。

多様な価値観を認めよ
 ある対象を測定し解析しようとする努力は、間違いなく尊い。しかし、その尊さと同様に、数値化できないものの存在を信じる姿勢も評価される世界であってほしい、と切に願う。こう言った議論が全て自分にブーメランのように帰ってくる怖さを感じつつ、それでも本稿を投げてみたい。クラシックギターが好き、生音が好き。その中で、少しくらい定量化できないロマンを信じてみてもいいではないか。




後書き
本稿は、最近たまに目にする、耳にするような議論に対して、こんな視点もあるよ、と言うのを述べてみたいと思い作成しました。盲視の実験と言う、とても面白い内容を紹介してみたかったのもありますね。論文口調で途中少しアグレッシブな書き方をしているものの、特定の方や主張を批判する意図ではないことをご理解いただけると幸いです。

幽霊の存在を科学的に証明できなくても、幽霊がいたっていいじゃない。むしろ、会ってみたい人いるし、ちょっと怖いけど。その方が滋味があると思うんですよね。存在を信じきるわけでなくても、存在してもいいんじゃないかな、と思うおおらかさ。そういう姿勢が、うまく説明できない何か、言葉にできない体験の感度を上げるのではないかな、と思います。オシロスコープの中に真実は確かにあるけれども、そこに現れない何かも信じていいんだ。

関連タグ: 音楽論
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