2020/06/23
生きると同時に生きてしまった アリストテレスに学ぶ、心を軽くする考え
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練習のコツや演奏のヒント、コンクール情報などを愛好家目線で綴ります。
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キーネーシス(運動)を歩くという例に則して説明しよう。歩くことは「或る地点から或る地点(目的地)へ」歩くことである。そして目的地(テロス)に到達すると、歩くという運動(キーネーシス)は終止する。もう歩く必要はないからである。テロスへ向かう運動はテロスに達すれば、そこで運動は終わるのである。歩くという運動はテロスに到達しないかぎりでのみ運動である。生きることがこの意味での運動であるとすれば、生きているかぎり、テロスに達することがないし、テロスに達すれば生きていない。(中略)
しかし生きることを別の仕方で理解できないだろうか。アリストテレスは生きることをキーネーシス(運動)でなく、エネルゲイア(現実態)として捉える。(中略)エネルゲイアと言う語はアリストテレスの造語でありアリストテレス存在論の根本概念である。(中略)エネルゲイアはキーネーシスの対概念として用いられる。エネルゲイア(現実態)とキーネーシス(運動)の対比は、アリストテレス哲学の基本的区別である。ともかくエネルゲイアの意味を「見る」という例によって説明しよう。
美しい花を見るという行為を考えよう。歩くという行為は目的地(テロス)に到達するために、言い換えれば、歩き終わるためになされる。しかし花を見ることは、見ること以外の目的(テロス)をもたない。見ることがそのまま楽しむことであって、見るという行為はそれ自身が目的(テロス)である。歩くことと異なり、見ることはテロスにすでに到達している。アリストテレスはこのことを「見ると同時に見てしまった」という動詞の現在形と現在完了形の同一性として表現している。「見てしまった」という現在完了形はテロスに到達していることを言い表している。エネルゲイアとは現在(「見る」という現在形)においてテロスに到達していること(「見てしまった」という現在完了形)を意味する。アリストテレスは生きることもエネルゲイア(生きると同時に生きてしまった)と考えている。生きることは生きることの外にある目的へ向かう運動、生き終わるための運動ではない。生きることがエネルゲイアであるという考え方はとても魅力的だと思わないだろうか。
ハイデガー入門(細川亮一:著 ちくま新書)より
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