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生きると同時に生きてしまった アリストテレスに学ぶ、心を軽くする考え

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生きることの意味を考える人に、私の好きな言葉を。

キーネーシス(運動)を歩くという例に則して説明しよう。歩くことは「或る地点から或る地点(目的地)へ」歩くことである。そして目的地(テロス)に到達すると、歩くという運動(キーネーシス)は終止する。もう歩く必要はないからである。テロスへ向かう運動はテロスに達すれば、そこで運動は終わるのである。歩くという運動はテロスに到達しないかぎりでのみ運動である。生きることがこの意味での運動であるとすれば、生きているかぎり、テロスに達することがないし、テロスに達すれば生きていない。(中略)

しかし生きることを別の仕方で理解できないだろうか。アリストテレスは生きることをキーネーシス(運動)でなく、エネルゲイア(現実態)として捉える。(中略)エネルゲイアと言う語はアリストテレスの造語でありアリストテレス存在論の根本概念である。(中略)エネルゲイアはキーネーシスの対概念として用いられる。エネルゲイア(現実態)とキーネーシス(運動)の対比は、アリストテレス哲学の基本的区別である。ともかくエネルゲイアの意味を「見る」という例によって説明しよう。

美しい花を見るという行為を考えよう。歩くという行為は目的地(テロス)に到達するために、言い換えれば、歩き終わるためになされる。しかし花を見ることは、見ること以外の目的(テロス)をもたない。見ることがそのまま楽しむことであって、見るという行為はそれ自身が目的(テロス)である。歩くことと異なり、見ることはテロスにすでに到達している。アリストテレスはこのことを「見ると同時に見てしまった」という動詞の現在形と現在完了形の同一性として表現している。「見てしまった」という現在完了形はテロスに到達していることを言い表している。エネルゲイアとは現在(「見る」という現在形)においてテロスに到達していること(「見てしまった」という現在完了形)を意味する。アリストテレスは生きることもエネルゲイア(生きると同時に生きてしまった)と考えている。生きることは生きることの外にある目的へ向かう運動、生き終わるための運動ではない。生きることがエネルゲイアであるという考え方はとても魅力的だと思わないだろうか。

ハイデガー入門(細川亮一:著 ちくま新書)より


生きることの意味を考えるより、生きると同時に生きてしまう。それも、美しい花を見るように。そんな生活を送りたい。

この手の話の本当に難しいところは、理解したからと言って実感できるとは限らないことだ。しかし、理解することで実感への道を開くことはできる。

私が哲学に惹かれるのは、偉人と呼ばれる人たちの思索の結晶であるからだ。単なる凡人である私が疑問に思うことなら、夜の先人達が同じようなことを考えていても不思議ではない。むしろ、歴史上誰も考えたことのない問を私が初めて問う、そんな場面のほうが少ないだろう。自分の疑問に、困りごとに、先達達が人生をかけた答えを提示してくれているのである。こんな贅沢があるだろうか。

ほら、いまだって、アリストテレスが私の心を軽くしてくれた。

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