登りたい山がある人には、アドバイスすることができる。こんな装備があった方がいい。あっちのルートから登るのはどうだ。けれども、道に迷ってるように私からは見えても、彼はその峠を目標にしてきたかもしれない。だから私はまず問わなければならない。「君はどこに行きたいのだ?」と。
このブログのことを知る友人が、「Webライティング検定」なるものを教えてくれた。Webの文章はこう書きなさい。こう書くべきですよ、を教えてくれるらしい。講座を受けて、検定も受けられる。興味があったのでやってみた。「紙と違いWeb媒体は~」「記号の使い方は~」といった事が勉強できる。
確かに、勉強になるし学ぶところは多い。生来の負けず嫌いもあるので、受かってやろうとも思っている。けれども、少し違和感があるのだ。その理由を考えていて、この検定に対する違和感と、ギターに関する発信の悩みと、根本は同じだなと思い至った。通常「文法」や「語学」を学ぶ際には、その歴史に対する洞察や文化への尊敬が見え隠れする。そう言った脈々と受け継がれてきた何か、その偶然にして必然の産物のような手触り感を、「Webライティング検定」なるものに今のところ感じていないのだ。
前述の例を再度使うならば、頂上までの道程をすべて指定されたハイキングのよう。せめて道順を選べればば、違うかもしれない。けもの道ならば、そこに道ができた歴史を味わうこともできるだろう。けれども、その道はどうやら完璧に舗装されているように見える。
影響を受けた作家および著作 5選『このときの登場人物の気持ちを答えなさい』。こんな国語の問題を、文書の著者が回答したところ不正解とされた…こんな話はたまに聞く。これは笑い話なのだろうけれど、多くの示唆を含むように思われる。世の中に絶対的な正解なんてものは存在しないのだ。
もし例外があるとすれば、それは数学だ。定義と定理から構成される数学は、その前提条件を共有することによって正解に辿り着くことができる。スピノザが主著『幾何学的秩序で証明されたエチカ(倫理学)』で幾何学的手法を採用したのはなぜか。ウィトゲンシュタインが『語り得ぬものに関しては沈黙しなければならない』と言う言葉で語ったことはなにか。何かしらの「正しさ」に言及する人間は、こう言った「真実」や「正義」を発信することへの感度を上げるべきではないか、と私は思う。
話をWebライティング検定に戻す。「こういう時はこうしなさい」「ホゲホゲな表現はしてはいけません」 こう言った定石があることは理解する。けれど、その上でどのような表現をするかは作り手の自由であろう。だから、もしもここで「好き嫌い」の軸ではなく「正しさ」に言及するならば、その経緯や根拠などが必要だ。それがなくては、その「正しさ」は簡単に宙に浮いてしまう。別にそれは歴史的淘汰でなくてもよいし、数値的レポートでも良いかもしれない。自らが「こうあるべき」を規定した背景を、その裏にある何かを感じたいのだ。
こんな風にいいたいことを語るブログは、教科書的なWEBライティングからはほど遠いようだ。検索からの流入が来ることはないだろう。検索者の意図は考えていないし、キーワード選定なんてしていない。もしこのブログに検索から来てくれる人がいたとしたら、たぶんすぐに離脱して最後までは読んでもらえまい。では、書き方を変えるか。投稿をやめるか。答えは「否」だ。
なぜなら私はこの自分の考えの「正しさ」を信じているからだ。文章に関しても、音楽に対しても、自分の間違いを恐れることはない。もし必要なものがあるとすれば、それは覚悟だ。その覚悟は重しとなり、あなたの表現を深くことするだろう。その覚悟をするためには、自分なりの山を見つけ、そのための装備を自ら模索しなければならない。その手段はあなた次第なのだ。
後書き
この文章は大きな矛盾をはらんでいます。けれども、その矛盾に対して真摯に向き合ったことのある人にしか出せない匂いも含んでいるはずです。
ちなみに、WEBライティング検定に文句を言いたい訳でもなく、せっかくなので勉強してみようとすら思っています。ただ1つ、勉強し始めて思ったことは、「私は素直に勉強するには捻くれている」と言う事でした(笑)。その理由を考えた結果、こんな文章になってしまいました。文中でも述べたとおり私はどうやら負けず嫌いなので、一応受かるまではのんびりやってみようかと思います。
あと、昔の自分にかける言葉があるとすれば、山を探して立ち止まるくらいなら、歩いたほうがいいよ、ですね。歩き始めないことにはどこにも辿り着けないから、とf^_^;
こんな私で良ければ、ライティング依頼受け付けますよ^_^ どちらかと言うと、ギターをお教えしたいですけど!と言うわけで、ギターの指導依頼も受付中!プロフィールは↓こちら↓
詳細プロフィール文中のスピノザに関する言及に興味を覚えた人には、下記本をお勧めします。ニーチェの永劫回帰と似た方向性なのに、神が死なないので最後まで孤独にならない。
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