人々が物をある価格で買うのは、その品物にその価格以上の価値を認めるからである。たとえば百円の価格のものなら百十円なり、百二十円の価値を認めるから、百円の代金を支払って買うのであって、八十円なり九十円の価値しかない物に百円出すということは、特別な事情でもあればともかく、原則としてはしないものである。
それを逆に物を供給している側から見れば、百十円なり百二十円の価値のある品物を百円で売るわけで、そこに奉仕ともいうべきものがあるといえる。その奉仕に対する報酬として利益が与えられるのである。
百二十円の価値のある製品をいろいろ努力して九十円の原価でつくり、それを百円で供給する。そう言う努力、奉仕に対する報酬がこの場合、十円の利益として買い手から与えられるということである。
(「利益は報酬であること」松下幸之助、実践経営哲学 PHP文庫より)
この話自体はハードウェアの販売を念頭に置いていただろうが、サービスやその他無形の内容でも本質は同じではないだろうか。松下幸之助が松下電器産業(現パナソニック)の元となる事業を起こしたのが1918年。上記「実践経営哲学」を記したのが1978年である。その間もその後もそして今も、時代は変わり続けている。しかしサービス/ ソフトウェア/ サブスクリプションが重視される現代でも、価格以上の価値を認めてもらう、と言う本質は変わらないはずだと信じている。逆に言うと、買い手としてそこを真剣に考えていない方は、一度立ち止まってみてもいい。
月に1万円の携帯電話通話料金に、価格以上の価値を見出しているか。年12万円払う意味があるのか。定額契約の怖さは、月払い額が少なくなり価格と価値の比較が難しくなることにある。もちろん、まとまった出費を抑えられる、月々の支出変動を抑えて計画が立てやすくなるなど、うまく使うとメリットも大きいのだが。
自分の仕事は、期待される以上の価値を作っているのか
個人事業主であれば、自分の仕事と給与の関係はある意味非常に単純だ。無論、個人事業主の仕事や責任は単純ではないし、むしろ複雑で重大だ。ただ、自分の生み出す付加価値が利益として返ってくる、と言う基本構造に関しては、理解しやすいだろう。こう言うと、「税金もあるし保険や投資もあるしそんな単純ちゃうわ!」と言う突っ込みがあるかも知れないけれど、それは主論ではないのでここでは横に置く。ちなみに松下幸之助は上記著作の中で、税金や株主還元/ 開発資金の積立などにも言及しているので、気になる方は1度読んでみられてはいかがだろうか。閑話休題。
企業に属し組織の中で仕事をしていると、会社の利益から自分の給料が支払われている、と言う事実から遥か離れてしまうときがある。自身の成果と利益の関係を正確に把握できる人は、なかなかいない。実は会社の経営トップですら、「個人の成果」と「会社の利益」の関係はわからないようにさえ思う。しかし、一個人が果たすべき役割に立ち返ったときには、求められる以上の価値を返すことが大切だろう。求められる価値と提供する価値の差分が各人の給与として与えられると考えてもよいのではないか。
ここで、非常に雑だが、メールの授受を例に上げてみる。「これはAですか?」という質問に答えるには、様々なレベルがある。
①いいえAではありません。
②基本的にはBです。
③さらには条件次第でCの場合もあります。
④そもそもの課題はDではありませんか?
⑤ABCの比較表と課題Dの説明資料を作りました。
⑥この件はEさんが詳しいので、彼もメールの宛先に加えました。
1度考えてみて欲しい。あなたはどのタイプだろうか?
質問に対する答えとしては、①のようにはい、いいえで成り立つ場合もある。けれど、そこで相手の質問の意図や背景を考慮にいれると、回答内容は増えていく。メール以外の資料の提出なども同様だろう。言われたこと、期待されたことの一歩先まで対応して、裏付けデータやを準備すれば、その人は期待以上の価値を生み出しているとみなされ歓迎される。
overachieverの落とし穴
依頼内容を斟酌し丁寧に対応すると、作業量が増え時間もかかる。その結果の課題の1つは心身の健康問題だ。同じ依頼に対して多くの時間を割けば、その分総労働時間は長くなり、心身は疲弊する。あるいは、単位時間あたりにこなせる仕事が減るため、「あいつは仕事が遅いな」と判断されるリスクがあるということだ。丁寧さと時間を両立できるのが1番だが、多くの場合この2つはトレードオフの関係にある。「いいえ、Aではありません。」と答えるだけなら、10秒だ。けれども、BやCの代替案を用意し、その理由や前提を説明し、裏付け資料を確認して、全体の文面を再チェックし、、とすると5分10分と時間が経っていく。「『はい』か『いいえ』か聞きたいだけやのにどんだけ時間かかっとるんや、ボケェ!!」とか、(その仕事に時間使わんでいいから、影響の大きいあっちの業務先にしてや・・)とか思われた日には最悪だ。(『はい』でも『いいえ』でもないから時間かけて回答作っとったんじゃこっちは、アホーっ・・!!)と、言葉にできない叫びとやり切れない思いを心の中に抱える羽目になる。
これはつまり、「他者の期待する成果」を推し量る際には、「出来栄え」に加えて「時間」も適切に扱わなければならないと言うことを意味している。
10分で70点か、1日かけて90点か
時間と成果のアウトプットのバランスを取る、と言うのは非常に難しい。模範解答のあるテストであれば、時間をかければ100点を取ることも可能かもしれない。しかし、絶対的な「正解」のない世の中の仕事に関しては、時間経過に対する成果は急速に頭打ちする。10分で70点までは到達しているのに、そこからさらに90点まで上げるために1日を費やす。あるいはそのまま、2日3日と工数を突っ込んで、95点になった。でも100点にはならない、、このパターンは十分に起こりうる。
このバランス感覚、いつまでにどのレベルのアウトプットを出すのか、これを適切に処理することは社会人として非常に重要な資質だ。もっと言うと、「マネージャーの仕事」とは、本来ここを管理することだと思う。リソース=人と時間とお金を管理し、求められたアウトプットを出力する。この仕事は1日でとっとと終わらせろ、精度は求めない。そのかわりあちらの仕事も止めるな。だとか。これは最優先だ、他の仕事は全部止めてでも正しくやれ、期間は3日だ。とか。中途半端なプレイングマネージャー(マネージャの傍ら個人としての実務もこなす人)よりは、マネージャー特化の方が本来は組織のパフォーマンスは上がるんじゃないのか、と私は思っている。
・・あぁ、これはちょっと違う。正確にはプレイングマネージャーを攻めたいわけではない。マネージせずにプレイングしているマネージャーはどうか、という話だった。マネージャーとして有能な人が、自分自身も一人のプレーヤーとして使いこなす、と言うのは十分にありえる話だ。ただし、自身のプレイングの忙しさを理由にマネージャーとしての職責を果たせない場合は、リソース配分が間違っている。それはそのマネージャー自身の責任であると同時に、そのマネージャーを管理する上位のシニアマネージャーの責任でもある。十分なリソースを渡さずに仕事をさせているか、彼がやらなくてもいい仕事に忙殺されているのを見逃がしているのだから。
少し話が横道にそれてしまった。ここでは組織論を語りたかったわけではなく、「どこまで頑張るのが適切か」に関して考えてみたかったのだった。
結論: 成果と時間 双方のバランスを考え、付加価値を生み出すべし
かたや上司の視点に立つと、「70点でいい」と言っている資料を90点以上に仕上げようとする部下は、これはこれで困りものだ。それを想定時間内に仕上げていればもちろん素晴らしい。けれど、期待している以上のアウトプットを出すために、他の仕事がおろそかになったり、残業が続いて体調不良にでもなられりしたらたまったもんではない。overachieverは、企業に付加価値をもたらす歓迎すべき側面と、他者がブレーキを踏みづらく悪影響を与えうる危険な側面を併せ持つのだ。
特に我々日本人は、幼いときから「100点を取る」教育に慣れ続けてきている。1時間のテストなら、仮に10分で終わっても途中退席せずに、残り50分間見直しを続けなければならない。これが、無意識のうちに長時間労働が蔓延る理由の一つになっている気もする。別に10分で退席して70点が取れていればいい場面だってあるはずなのだ。時間の使い方に上手くなること、100点を取らなくても満足することは、仕事に対して大切な観点かもしれない。と、こんな書き方をしてしまったが、他の国のテスト事情に詳しいわけではないことを一言付しておく。問題を解き終えた人から自由退室が常識、という国も少なからずあるのでは、と勝手に思っているのだが。
何はともあれ、 overachiever には功罪両面がある。自分が高いパフォーマンスを目指すことは会社良い影響を与えるだけでなく、望まれない無駄を生み出している可能性もあるのだ。勝手に自分自身を追い詰めてはいないか定期的に振り返り、適度に手を抜いて仕事に臨むのがよいのではないだろうか。
あとがき
このブログでは、趣味としてギターを論じる傍ら、会社員として感じる内容を述べさせていただくときもあります。今回も仕事や会社生活を通じて感じたことを書いた結果、思った以上に固い内容になってしまいました。まぁそんなこと考えて仕事している人もいるんだなぁと思って読んでいただければ幸いです。
ちなみに、期待以上を期待されるのは仕事だけではなく芸術も同じで、音楽を聞きに行った際も事情は似ているかもしれません。スーパースターの調子が悪ければがっかりもするだろうし、ギターを始めて長くない人が急激に成長していたら嬉しい驚きを感じるでしよう。我々は無意識のうちに、相手に応じて「これくらいのものを聞きたい」と言う線を引いてしまいます。人に喜んでもらうとは、この線を飛び越えていくことです。この「期待」という側面では、実は我々アマチュア、ギター愛好家は恵まれた立地に居ます。最初から過度なハードルを要求されることが少ないからです。その「愛好家」と言う肩書に甘んじず、プロと同等かそれ以上のパフォーマンスを目指せば、結果として驚きをもって迎えていただけるのではないでしょうか。そしてそのためには、とにかく頭を使って効率を上げていくことだと思います。
毎月のように新譜に挑戦する。初見で優れた重奏をする。こういったことをプロと同等にするのは正直厳しい。けれど、5分の曲、10分のステージであれば、期待を超えることもできるはずだ。超えていきたいと本気で信じています。
期待通り期待を裏切ることの素晴らしさと難しさ 20年ぶりにJUDY AND MARYを振り返る
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コメント
No title
2020/01/19 20:54 by まーくん URL 編集
Re: No title
考えすぎずに走り出すときと、地に足をつけてしっかり時間をかける場面とを使い分けたいですね。
2020/01/19 21:27 by あしゃお@管理人 URL 編集