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S先生の思い出

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 今日は極めて私事になるものの、高校時代の先生の思い出を語りたい。現代国語を担当してくれていたS先生のことだ。

 高校の頃、進学先を悩み始めた頃の私は、「数学が苦手ではない」と言う消極的理由から理系に進もうとしていた。逆に、そんな理由にも関わらず国語や古文漢文をなおざりに済まそうする私を、国語学習の道へと繋ぎ止めてくれた方、それがS先生である。今となっては、理系とか文系とかそんな曖昧な括りに自分の将来を預けようとしていたことが恐ろしいし、言語や文法に対する知識はすべての活動の基礎となることも痛いほどわかる。

 高校当時の私は、S君の隣の席だった。S先生と紛らわしいので、ここでは名字ではなく名前の頭文字を取ってT君とする。T君はとても賢く、早い時期から医学の道を志すと決め、努力も厭わないまさに秀才であった。さらには野球部のエース。その後彼は実際に難関国立大学の医学部に進学していくのだが、そんな彼は、S先生からよく「ちゃんと国語の宿題もやってこんか」と指導されていた。そこだけ見れば、単なるよくできた少年のエピソードで終わりである。しかし問題は、隣に座っているだけの一般人の私までセットで巻きこまれることだった。「おいT、なんでやっとらんのや、これぐらいやっとかないとあかんやろ」と見回りに来るついでに、私のノートも見て一緒に怒られるのである。なんでやねん、と思いながら、私も渋々きちんと勉強をするようになる。
 当時宿題で出された「これくらいの言葉は定義を覚えなさいリスト」の中には、当時初めて見る単語が多くあった。例えば範疇(カテゴリー)。カント哲学を聞きかじった今なら意味がわかるが、当時は初見単語として覚えるしかなかった。他には、例えば帰納と演繹があった。帰納: 特殊から普遍を導くこと。演繹: 普遍から特殊を導くこと、とあり、これも意味もわからず暗誦した。しかしこれも、仕事にもギターにも物凄く生きている。自分の取り組みが帰納的なのか、演繹的方法なのかを理解することは、非常に重要な視点だ。

 もう一つS先生の教えで記憶に残っていることが、フィクションには無駄な構成は一切登場しない、と言うものだ。小説はすべて作者の意図を含む、なぜなら全てが作者の創作なのだから、と。当時ちょうど村上春樹の「ノルウェイの森」を読んでいた私は、めちゃくちゃ悩んだ。なんで村上氏はこの話を書いたんだ。特に突撃兵、お前は一体何の目的でこの小説に登場させられたんだ。わからないなりに繰り返し読んだことは、私に文章と繰り返し向き合うことに対する耐性と、青春に対する勝手な妄想とを植え付けることになった。

 あるとき、学校のとある式典で式辞を述べさせていただく機会を得た。学校内の式典とはいえ、多くの学生とその両親も出席するような、それなりの規模のものである。当時は知らなかったのだけれど、実は従来の選出方法、分かりやすく例えるならば生徒会の会長が行う、と言った旧例を曲げて私が選ばれたのだ、と後から知った。私を推してくれたのはS先生だったらしい。T君の隣に座ってるだけの私だと思っていたけれど、先生は私も気にかけてくれていたようだ。

 まずは草案を書いてこい、と言うことになり、原稿用紙を買ってきて、悩みながらもとりあえず規定の長さを書いて提出した。当然のように真っ赤になって帰ってくる。いくら本が好きで読書をしていたって、文章を書く練習なんてろくにしたことがなかったのだ、いま思うと当たり前だった。それでも、2回3回と繰り返し修正した。重複を削除し、順序を入れ替え、わかりやすい表現を選んだ。赤字だらけの添削を経て、最後に「とてもよくなりました」と表紙に書かれた原稿が返ってきたときはとても嬉しく、実は今でも家に保管している。

 実はこの式辞に関しては、原稿ができてからも大変だった。「とてもよくなりました」の次は、「ではこれを奉書紙に清書し、全部暗誦しなさい」と。「え?読むんじゃないんですか?」と聞く私に、何を馬鹿なことを言ってんじゃ、と言う感じで呆れ笑いながら「暗記じゃ」と。

 加えてS先生は、喋る前の所作を教えてくれた。壇上に上がれば、会場をゆっくり見渡すように。そして自分の視覚の四隅を確認し、その4人の顔を見つめる。そして、その4人に向かって話かけなさい、という事だった。不特定多数の群衆にするのでなく、特定の誰かに話しかけなさい、という事だったのだろう。何もわからなかった10代の私は、頑なにS先生の教え通りに登壇し、式辞を終えた。完全に暗誦していたはずなのに一箇所声が上ずって固まりかけ、もし暗記して臨まなければどうなっていたことかと舞台袖で振り返ったものである。

 クラシックギターの演奏会では、未だにこの所作を守っている。会場に入り、四隅を見渡す。そうすれば緊張が和らぐと心も体も信じているからだ。何せあのS先生が教えてくれた所作なのだから。

 このような思い出を以て、私はS先生を恩師だと思うようにここ数年なっていた。しかし改めて文章に書こうとすると、恩師の定義とは一体なんなのか、と考えさせられる。S先生の宿題のリストに「恩師」と言う単語があったかは覚えていない。今辞書で引くと、「教えを受けた、恩のある先生」(デジタル大辞泉)となっている。この定義が正しいならば、私にとってS先生は恩師を越える何かと言うことになる。確かに教えを受けた。恩もある。けれど、そんな簡単な説明では、先生に対する、感謝の念を始めとする私の思いの丈は絶対に言い尽くせない。

 思うに、恩師と言う存在には二種類あるのではないだろうか。一つは、教えを受けているまさにその時の流れにおいて、相手に尊敬や感謝の念を覚えるもの。もう一つは、時間が経ち振り返ったときに、あぁあの人は恩師だった、私の人生に大きな影響を与えてくれたのだ、と実感するものである。S先生は後者だった。

 宮本輝による青春小説「青が散る」から、印象的な場面を引用させていただく。
 
  (引用開始)
 焼香を済ませた四十過ぎの男が、突然大声で祭壇に向かって、
「先生」
 と呼びかけたので、周囲の人々は一様にその声の主のうしろ姿を見つめた。男は泣いていた。そしてもう一度、
「先生」
 と言った。
「私は、よく先生に叱られました。先生、お判りですか。中塚ですよ。あの不良学生の中塚です」
 男の友人らしい別の男が、まわりをはばかってやめさせようとしたが、その中塚という男は祭壇に安置されている辰巳圭之助の遺体に向かって話しつづけた。順調に流れていた焼香者の流れは止まり、人々は不審げに男を見ていた。 
「先生は私のことを嫌いだと仰有った。昭和二十三年の十月でした。私はよく覚えています。私はなぜ先生に嫌われたのか判りませんでした。それで先生を憎みました。しかし、私はいまそれが判ります。私を決して許してくれなかった先生を喪って、いま私は本当にひとりぼっちになったことを知りました。私は」
 そこまで言うと、男は絶句した。そして深く頭を下げると、くるりと祭壇に背を向け、泣き腫らした目を手の甲でこすり、足早に寺の門から出ていった。
  (引用終わり)

 S先生の言い方をお借りするならば、この辰巳圭之助と中塚の話も、作者の宮本輝が構成上必要を感じて導入したことになる。宮本輝は果たしてこのエピソードで何を伝えたかったのだろうか。私はS先生に嫌われていたとは思わない。どちらかというと、気にかけてくださったのだと思う。ただ残念なことに、当時の私はそのことに気づかず、不思議だとも理由を知りたいとも思わなかった。けれど、最近になって、S先生とまた話してみたいと思うようになってきた。もし私のことを覚えてくださっていたなら、聞いてみたい、話してみたいことがたくさんある。

 実はこの記事を書き始めてから、既に4ヶ月以上が経っている。ふと思い立って書き始めただけで、特に急ぐ理由があったわけでもなく、少しずつ書き留め続けていたからだ。ただ書き終わったときには、S先生に送付して20年越しのお礼に代えようかと思っていた。書いている最中に、中高の友人と飲む機会があった。「S先生元気にされてるか知ってる?」と聞いたところ、数年前に亡くなられたらしいとのことだった。

 ただ思いを綴っただけのこの文章は、その宛先に届くことは永遠にできなくなってしまった。この極めて私的な吐露を私はどこに届けたらいいのだろう。わからない。と言うか、たぶんどこにも届ける必要のない文章なのだと思う。ただ、私の抱えた思いをここに記しておくだけだ。S先生、ありがとうございました。私は今も、文章を書くことに楽しみを見出しながら生きています。ただ願わくば、この文を届けたかった。そして、赤字でいっぱいに添削された返事を受け取りたかったなぁ、と思っている。

 これからも私は、誰かに届けたい文章と、誰に届ける訳でもない文章とを書き続けることだろう。若かりし私に確かに道を示してくれたS先生のことを、折に触れ思い出しながら。

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