こう言った、普遍的な内容のレッスンって難しいんですよ。教えるのも難しいし、聞いている方も退屈になりがち。結局、「とある曲」のレッスンをする方が、先生も生徒も楽になりがちなんです。では、どうするか。「ある曲」で教えてもらった内容と別な曲での内容を、自分で有機的に繋げる。それを繰り返し、自分で「全ての曲」に適用可能な法則を積み上げていく。これだと思います。
帰納するんです
この「特殊から普遍を導き出す」作業を「帰納」といいます。数学的帰納法、のアレです。ほら、n=1とかn=kと言う、「特殊」な内容から、全ての自然数に適用可能な「普遍」の式を証明したでしょ??
この逆に、「普遍から特殊を導き出す」ことは、「演繹」と言います。ニュートン力学の公式がこうだから、ボールはこんな放物線を描く、みたいなやつ。音楽で言うと、教科書で「ドミナントモーション」を学んで、それを個別の楽譜の解読に使っていく感じ。
言葉が難しくても、概念はぜひ覚えておくといい思います。「この形のボタン押したら電気つくな、どの部屋もそうみたい。だからこのボタンは照明のスイッチだ」みたいに一般論から全体論に持っていくのが帰納。「仕様書がこうなってんだから、このスイッチ押せば照明がつくはずですよ」ってのが演繹。
この感覚、仕事でも結構大切です。とある仮説を証明する際は、演繹的な理論を固めつつ、帰納的に証拠を例示する。あるいは、すぐ極論ばかりを言う人には、演繹的な視点をもってもらう。方法論として何が足りないのかがわかると、指摘も議論もしやすくなりますね。
ちなみに、帰納は英語で induction です。ダクトに入ってくように、ある結論に導かれていくんですよ。一方演繹は deduction です。ダクトから出てくるんです。すでにある結論から、一般的な具体例が生み出されるんです。ちゃんと対になっていてイメージがわきやすいでしょう?
英語を喋られないなりに意思疎通する秘訣と、それでも勉強を勧める理由閑話休題。。
音楽で演繹的な勉強をするのは、とかく退屈になりがち。だって、実感を伴いにくいですから。それよりは、個別の「ある曲」で経験や気づきを積み重ね、その実践内容を普遍的な要素に帰納して行くほうが音楽にはあっているように感じます。
とは言え、帰納ばかりを追及するのもよくない
私はある時期この考えが気に入って、「曲の中にある普遍的な内容を抽出する」ことに一生懸命になったことがありました。こういった時にありがちなのが、手段に集中しすぎて目的を忘れてしまうこと。レッスン内容を帰納する、と言う手段に囚われすぎると、今度はレッスンしてもらっている曲を味わい尽くす、音楽を楽しむ、と言う目的から外れてしまいます。私はまさにこの罠に陥りました。
「『現にいま取り組んでいる曲』自体に込められているよさ」を発見し楽しむことをおろそかにしていた時期があったのです。いや、正直に言うと、長い目で見た場合今もそのフェーズにいるような気もしています。
多くの曲に対して普遍の部分は、きっとたくさんあります。拍子と調を確認する、音価は楽譜の指示通りに、転調部分は雰囲気を変えて、テンポは崩しすぎず、旋律の始りを意識して・・。そう言った取り組みは、音楽の勉強としては素晴らしい。ただし、それら普遍の要素をいくら集めても、『現にいま取り組んでいる曲』の本当に綺麗なところなんてのは出てこない、このことに注意が必要です。
自分の周りの家族や友人を観察して、「人間ってのには目が二つあって鼻が一つで」なんてやっていっても、自分って人間の本質が出てこないのと同じように。
ん?わかりにくい?別の例えにしましょうか。
世界中の美しい人を研究しても、愛する人の美しさの証明にはならない
世界の最も美しい顔ベスト100ってありますね。あれを研究すれば、「どういった顔が美しいと思われるか」に関する知見を得ることができます。さらにはその知見を持って、目の小さな人に有効な化粧の仕方や、顔の丸い人に似合う髪型を勧めることはできるかもしれない。けれども、あなたが現に今好きな誰か、その特定の人が最高に輝くための舞台を用意するためには、その「一般的」なアプローチだけじゃ偏っているんです。その大好きな人を見つめ、傍らに寄り添い、一緒に夢を語り時には愚痴も聞いてあげる、相談に乗る。そう言う時間を費やすことで、その人のよさをもっと深く知り、その人と一緒にいる時間を楽しめるのではないでしょうか。
恋人といる時間に、美しい顔百選のカタログ眺めて、化粧雑誌ばかり見てたら、きっと振られちゃいますよ。「そんなところに私はいないわ。もっとこっちを見て」って。言われたことないけど。
知識も大事、情熱も大切
ギターを続けてきて思うことが2つあります。1つは、時間をかけて知識やスキルを少しずつ積み上げてきた、と言う自負と自信。もう1つは、目の前の曲にがむしゃらに取り組むと言う意味では、レッスンも受けずにひたすらやりたいように弾いていた若いころの方がよかったかも知れない、と言う恐れ。当時の演奏が多くの人の心に届くものであったかはわかりませんが、何かしら気を引くところはあったのではないか、とも思います。
どちらが優れているとか、片方は悪いと言う類のものではありません。知識は自信をつけるために必要。けれども、演奏に火をつけるには情熱も不可欠。両輪をバランス良く備えていきたい、そんなふうに感じています。
後書
本記事は、2011年5月の「曲の本質」と言う記事を、大幅に加筆修正した内容です。当時、哲学的なアプローチを音楽に適応した際に、なにか得られるものがないか、と考えていまして、その1つの原型が本記事の元となりました。帰納と演繹、実存と超越論、みたいなことを音楽で考えたら何が起こるんだろう、みたいな。
そんな過去の投稿を今さら振り返っていて、自分の記事ながらに感じるところがあったため、根本はそのままに肉付けをすることにしました、結果ボリュームは増えましたけれど、当時の課題を今まで8年以上引っ張り続けているようですね(*_*)
前回の記事では、最後を下記のコメントで閉じていました。
『ちょっと回り道をしてしまったかな。でも今気付けてよかったと思います。次から楽譜を見るときには、もっとその曲自体を愛おしむ心を持って臨みたいと思います』
おい、なかなかいいこと言うじゃん俺! その曲自体を愛おしむ心、だってよ。それ携えていこうぜ、これからも。
伊藤亘希先生のワンポイントアドバイスを受講しました
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