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音楽に『心』をこめるとはどう言うことか、哲学を借用し考える

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「演奏に心をこめて」の意味がわからない。先日、とある方のこんな疑問を偶然拝見しました。確かに、あいまいな表現で漠然としており、どうすればいいのかわかりにくいですね。そもそも、演奏以前の問題として、果たして心って何なのか?ということからして疑問です。こういった問題を考えるに際しては、数多の先人の知恵を借りるのが良いです。というわけで、今日は哲学的思考を借用して、音楽に心をこめるにはどうすればいいのか、を考えてみたいと思います。

あらかじめ結論を申し上げると、下記3つです。それぞれは排他的かもしれないし、高次では共存可能かもしれません。
・他者に心の存在を信じるかのように、音楽に心がこもると信じられるような演奏をする。
・授かった音楽をただ演奏する。我々が心をこめようとするまでもなく、音楽はすでに祝福されている。
・音楽にこめるべき心は存在しない。呪詛と忍耐とともに演奏する。願わくばその先に肯定があらんことを。

これだけ見ると、禅問答のようなもので何のヒントにもなりません(笑)。そのやり方を聞いとるんじゃボケー!てなもんですが、そんな直球の回答は本稿に登場しません。それでもこのまま長文にお付き合いいただければ、その思考の結果として、音楽の見方や捉え方が少し変わり、ほんの少し深くなるかもしれません。哲学の価値は、そのエッセンスをもって自ら考える過程にあると思います。

キーワード:どこでもドア 哲学的ゾンビ 永井均 神だけがなしうる仕事 スピノザ 神あるいは自然 ニーチェ 神は死んだ

あ、念のため、私は大人になってから哲学に興味を持ち入門書の類を読み始めたもので、系統だった勉強などはしたことがありません。なので内容は「私の理解するところの〇〇」程度のものです。。さて、本編はドラえもんのどこでもドアから始まります・・・。

どこでもドアで移動した『僕』は本当に『僕』なのか?


「あ、あの・・・ドラえもん、ちょっと、聞くけどさ、このどこでもドアって、どんな仕組みなの?」

ドラえもんはこう説明した。

今、自分の部屋にある「どこでもドア」を A とし、移動先の学校にある「どこでもドア」を X とする。まず、「どこでもドア A」 を通り抜けた人間は、その体を分子レベルでスキャンされ、その「分子構造」の情報が、移動先の「どこでもドア X」 へと転送される。そして、「どこでもドア X」 の方で、転送された情報をもとに、一瞬にして、その「分子構造」を再現する。

「つまり、 ドア X では、キミの肉体が再現されるというわけなんだよ」

「あれ?じゃあ、この ドア A を通り抜けたボクは、どうなるの?」

「分子破壊光線で、コナゴナ。一瞬にして、消え去るよ」

「えええ!?ちょ、ちょっと待ってよ、それって、ボクが死ぬってことじゃないの?」

「違うよ、向こうの ドア X では、キミがちゃんと生きていて、学校で授業を受けるんだ」

「いや、それは違うでしょ!だって、『このボク』のこの体が、消えるんだよ!」

思考実験(2)どこでもドア - 哲学的な何か、あと科学とか
http://noexit.jp/tn/doc/sikou2.html




 この問題を読んだ皆さんは、どう感じられるだろうか。ドアをくぐる前ののび太とドアの先から現れるのび太は、同一人物なのだろうか?この問題を考えるにあたってのポイントの一つが、心とか魂と呼ばれるものなので、後から詳しく触れる。ここでは、似た状況は音楽においてすでに生み出されている、と言うことをまずは語りたい。録音と再生である。
 いまや当然のように受け入れられている科学技術、マイクを使って録音したデータを別の時間/空間に送信し、スピーカを用いて再生することで音楽環境を再現する手法には、前述のどこでもドアの疑問と重なるところがないだろうか。音楽は経時的に形を留めるものでもないので、分子破壊光線を用意するまでもない。録音された情報は自然と消え行き、後には録音データと再生器による再現のみが残る。では、この録音/再生前後の音楽は、同一のものだろうか。音楽が持つ固有の何か、音楽の心や魂とでも言うべきものを伝送しているのだろうか?

 「いや、マイクで全ての音環境は録音できないじゃないか」と言う反論がある方は、それができるようになった未来の技術を想定してほしい。ドラえもんのどこでもドアのように。それこそがまさに「思考実験」なのだから。この稿は、そのような仮定をすることで音楽の心を抉り出さんとする無謀な試みなのだから。

楽譜から音楽を演奏することは、再生技術の一つである


 楽譜を読み楽器を持って音楽を奏でることも、実は広義の再生技術の一つである。ある時ある場所に現れた音楽を、あるいはまだどこにも現れず作曲家の頭の中だけに存在する音楽を、別の時間他の空間に生み出す。これはまさに音楽の再生である。文字を残しそれを音読することも同じ形式に含められる。いや、黙読し心の中に情景を思い浮かべることまで含めても別に構わない。人間の様々な努力は、瞬間的に存在しそして消え行く何かを未来に向かって繋ぎ止めるためのものとも言える。この努力によって、人間は生物学的進化を遥かに超える速さで文明を築き上げてきた。しかし、この蓄積され再生される何かに宿るべき固有の存在、心とか魂とか呼ばれるものに関して、我々は無関心になってはいないか。


コンピューターが生み出す音楽にも、変化はつけられる


 録音された音楽の再生だけではなく、楽譜情報を入力し再生するソフトと言うものも近年では広く用いられる。そこには五線譜だけでなく様々な情報を付加することができる。パート毎に音色を選択できるし、加減速も含めてテンポを細かく指定可能だ。場合によっては音程も上下させ、十二音平均律だけでなく微妙なニュアンスを入力してもよい。こうして、ある音楽家は自分の思いの丈を全てこの楽譜情報に注ぎ込んだ。ではこのデータを再生した場合、そこに心はあるのだろうか?この音楽家の魂は、はたしてそこに宿るのか?
 「何度再生しても同じ音を出すんだから、それはコンピューターでしかないよ、人間とは異なる」。本当にそうかだろうか。いや、それは残念ながら反論にならない。だって、五回に一度ミスするようにプログラミングしてもいいんだから。乱数によりテンポを微妙に揺らすことだってできるんだから。もっと言えば、その日の天気や気温、湿度や風速によって演奏を微妙に変えたっていい。聴衆の反応に応じてクレッシェンドすることだってできる。そう、人間にできることはなんだってコンピューターにだってできる。少なくとも、そんな思考実験は可能だ。
 いや、この程度の前提ではまだ生ぬるかった。もはや我々は、人間そっくりのロボットをこそ想定すべきだったのだ。見た目は人間と何も変わらない。動きも滑らかで肌の質感も人間そのもの。喋ることもできるし、もちろんギターを人間のように弾くことができる。そして人間と同じように緊張もするしミスすることもある。ただ、中身がロボットなだけだ。さて、もう一度問おう。このロボットによる演奏には、心はこもっているのか?人間の演奏と何か違いがあるのだろうか?

 哲学ではこのロボットのことを哲学的ゾンビと呼ぶ。この見かけ上は人間と変わらないロボット、哲学的ゾンビと『心』を持った人間を分けるものはなんなのか。そこに、我々の演奏を音楽的ゾンビにしないための手がかりがありそうではないか。

哲学的ゾンビ(てつがくてきゾンビ、英語: Philosophical zombie、略: p-zombie)とは、心の哲学で使われる言葉である。「物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間」と定義される。
哲学的ゾンビ - Wikipedia




『今日から僕は心があるんだぞ』


 まず、人間そっくりのロボットを考えよう。外見は人間と区別がつかず、人間がすることは何でもできるロボットである。笑ったり泣いたり、ケーキを食べたりセックスをしたり、計画を練ったり議論したり……。しかし、それは外面だけのことであって、彼には心が、といっても意識が、といってもなんでもいいが、まあ、そういうようなものが欠けているのだ。つまり、笑っているときじつは可笑しくなく、泣いているときじつは悲しくなく、ケーキを食べているときもじつは甘く感じてはいない……といったぐあいである。
 さて、ある夜、哀れに思った神さまが、そのロボットに心を与えてやったとしよう。あくる朝、意気揚々と学校に(学生だったことにしよう)あらわれた彼が、友人たちに向かって「今日からぼくは心があるんだぞ」と言ったら、友人たちはどう思うだろうか。しつこく言いつづければ、相手にされなくなるだろう。さらにもっとしつこく言いつづければ、頭がおかしくなったと思われるにちがいない。仮定によって、外部から識別できる違いは存在しないのだから、友人たちにとってはなんの変化もありえないのだから。
 だが、友人たちに識別できる変化はなくとも、やはり変化はあったと考えることはできる。少なくとも、ここまでの記述を読んだ読者の大半は、その変化の意味を理解したはずである。ロボットに心がある場合とない場合には違いがある、と思ったはずである。自分でその違いを識別することができなくても、そこには違いがあると感じたはずなのだ。つまりこれもまた「識別できないが理解はできる違い」なのである。
 (中略)心を与える者は、ぜひとも神(あるいは神のごとき者)でなければならない、ということである。これはきわめて重要な案件なのだ。たとえばロボット工学者は、このロボットに心を与える能力がない。ロボット工学のいかなる進歩を想定しても、原理的にない。ロボットがどんな反応をするようになっても、心が付与されたかなお付与されていないかは、いつまでも謎にとどまるからだ。ここで想定されている意味での心を与えるということが何をすることなのか、ロボット工学はけっして理解することができない。
 (中略)人間に識別できない違いなどはないのと同じことだという立場も、十分に成り立つ余地がある。しかし、人間に識別できないという点こそが重要なのだ。もし神というものに固有の仕事があるとすれば、それは世界に人間には識別できない(が理解はできる)変化を与える仕事だからである。自然や人間にもできる土木工事(世界の物的創造)や福祉事業(心の慰め)は本来の神の固有の領分ではありえない。
 だから、ロボットのこの変化を理解し、そういうことがありうると思った人は神の概念を信じているのであり、(識別できるかぎりではこのロボットと変わりがないはずの)他人たちに心があると現に信じている人は、神が現に存在していることを、つまり神の実在を信じているのである!

私・今・そして神 開闢の哲学、第一章五節「神だけがなしうる仕事」より(永井均)




この最後の箇所、「他人たちに心があると現に信じている人は、神が現に存在していることを、つまり神の実在を信じているのである!」のこの部分、読み度に震えを覚えるたまらなく好きなところである。そう、それは宗教的な神とは違うかもしれないけれど、やはり神は実在するのだ。

 さて、本稿の目的は哲学の知見を音楽に応用することだった。ここでは、「人間に識別できる違い」と「人間に識別はできないが理解はできる違い」を音楽に適用しよう。

「人間に識別できる違い」


 音楽における、識別可能な違いはわかりやすい。音の強弱/リズムやテンポ、あるいはミスをした/しないなど、耳から聞こえる「違い」は基本的にここに属する。あるいは、見た目での違いもここに含まれる。堂々とした立ち居振る舞い、あるいはミスをして首を傾げる動作。こう言ったものが「識別できる違い」だ。識別できる違いをより良い方向へ追求し、ミスなくそして起伏に富んだ演奏をする。これは言うまでもなく大切なことである。ただし、識別可能であるということは、それはロボットにも可能な演奏なのだ。識別可能である限りは、それは単なる違いであり、神の固有の仕事による心ではない。

「人間に識別はできないが理解はできる違い」


 では識別はできないが理解はできる違いとは何か。それはまさに、「心のこもった」演奏と言うことになるだろう。一般的に「あの人の演奏には魂がこもっている」とか「もっと気持ちを入れて弾きなさい」と表現されるときには、実はその結果として現れた「識別できる違い」に影響を受けていることが多い。しかし、『心』と言うものは本来識別できないものなのだ。自分以外の他者に心があるのかどうか、日常生活で識別することはできない。しかし、毎日の行為の結果として、我々は他者が心を持つと信じている。それと同じように、音楽に心があると信じさせるだけの説得力を、演奏に持たせる。そうすることで、音楽に心が存在すると聴衆は感じるのである。そこには識別できる違いがないにもかかわらず、心の存在を認めることができるのだ。
 理解はできるけれど識別できない違いを区別するのが神固有の仕事であるとすれば、音楽に心をこめるために、私達は音楽の神にならなければならない。識別できる違いを重ねることで音楽に心が生まれるのではなく、識別できない違いを与えることによって、そこに魂が宿るのである。

感動が言語化できないのは必然である


 こうして見てくると、「心のこもった演奏」に感動した際に、それを言語化できないのは納得であろう。我々にできるのは、識別できない『心』が与えた結果でしかない演奏の断片から、識別可能な部分を取り出すことだけなのだから。圧倒的な演奏を無理に言葉にする必要はない。演奏に心を込めることに成功した音楽家の、その神の御業にただ感動すればよいのである。

録音データに心は宿るか


 冒頭にどこでもドアを用いて提示した問いを思い出そう。録音される音楽と再生される音楽は果たして同一なのだろうか。それらは、他者から識別できない限りにおいて、同じである。そして、そこに「識別はできないが理解はできる違い」が存在するかは、受け手がそこに神の存在を信じるかどうかによるのだ。
 あなたが家族や隣人には心があると信じるならば、そこにはロボットと人間を隔てる何かを授ける超越的な存在を感じていることになる。それと同じ構造で、音楽に魂を授けるものがいる、と実感できた時、音楽は心のこもった実在としてあなたの前に現れるのである。

 さて、ここまでの話をまとめてみよう。「音楽に心をこめるとはどういうことか」と言う問いに対しての回答、それは「音楽に心がこもるような演奏をしてください」と言うものだ。この禅問答のような結論だけでは、あなたの人生も音楽も影響を受けないだろう。哲学と言うものは、人生を今すぐ豊かに変えるような劇薬ではない。しかし、自ら考えることで人生は少しだけ深くなる。結論ではなく過程を経ることで、あなたの音楽が少しでも深くなることを願う。
 とこれで終わると少しもったいないので、「音楽に心をこめる必要などない」と言う観点も紹介したい。

神はすでに存在している


 神の実在に関しては他にも様々な考え方がある。例えばスピノザは、世界のあり方を定義する絶対的な何か=「神、あるいは自然」が存在し、それが様々な様態でこの世に顕現していると考えた。この世の全ては神の知性の現れであり、存在するだけでそれは神に肯定されているのだ。世界に生み出されたものは、もはやそれだけで神に祝福されている。

われわれが「神あるいは自然」と呼ぶあの永遠・無限の実有は、それが存在するのと同じ必然性をもって働きをなすのである。(中略)したがって「神あるいは自然」は、なにゆえに働きをなすかの理由ないし原因と、なにゆえに存在するかの理由ないし原因が同一である。ゆえにそれは、何ら目的のために存在するのではないように、また何ら目的のために働くものでもない。すなわち、その存在と同様に、その活動もまた何の原理ないし目的も持たないのである。(第4部序言)

神に対する精神の知的愛は、神が無限である限りにおいてではなく、神が永遠の相のもとに見られた人間精神の本質によって説明されうる限りにおいて、神が自分自身を愛する神の愛そのものである。言い換えれば、神に対する精神の知的愛は、神が自分自身を愛する無限の愛の一部分である。(第5部定理36)

幾何学的秩序で証明されたエチカ(倫理学)、スピノザの世界(上野修)より孫引き




 この考え方に即せば、音楽も存在するだけでそれすなわち神である。音楽はすでに十全なものとして存在しており、我々はその一端を見ているだけである。心は別にこめるものでもなんでもない。ただ神の存在を、その愛を感じて演奏するだけでよいのである。聖歌や宗教的楽曲、あたかも啓示を受けているかのような曲に対しては、このような考え方もあうのではないだろうか。我々が心をこめるかわりに、すでに祝福されたものを受け取り、そこに提示するのだ。

神は死んだ。永劫回帰から見る音楽観


 スピノザによる神の肯定は、別の言葉では「自由意志の否定」でもある。全ての事物は神から生み出される必然なのだから、そこに人の自由意志は存在しえない。この自由意志の否定を全く別の観点から語った人がいる。神は死んだ、と言う言葉を残し、思索の果てに晩年には狂人となった伝説的な哲学者ニーチェである。

 最大の重し――もしある日あるいはある夜、おまえのこのうえない孤独のなかに悪魔が忍び込み、こう告げたとしたらどうか。「お前が現に生きており、また生きてきたその生を、おまえはもう一度、いやさらに無限回にわたって、生きねばならぬ。そこには何ひとつとして新しいことはなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思いとあらゆるため息、おまえの生の言い尽くせぬ大小すべてのことが、おまえに回帰して来ねばならぬ。しかもすべてが同じ順序と脈略において(中略)」と。――おまえは身を投げ出し、歯ぎしりして、その悪魔を呪うのではないか。それとも、おまえは突如としてとてつもない瞬間を体験し、「あなたは神だ、私はかつて一度もこれほど神々しいことを聞いたことがない!」と答えるであろうか。もし生の回帰というその考えが、おまえを圧倒したとすれば、それは現在のおまえを変えてしまい、砕きつぶしてしまうかもしれない。何事につけても「おまえはもう一度、いやそれどころかさらに無限回、それを欲するか」という問いが最大の重しとなっておまえのうえにのしかかるだろう! そうはならずに、生の回帰というその究極で永遠的な確証と確認のほかにはもう何もいらないと思うためには、おまえは自分自身とその生とをどれほどいとおしまねばならぬことであろうか。

『悦ばしき知識』における永遠回帰:これがニーチェだ(永井均)より孫引き




 スピノザが神と共にあるのに対し、ニーチェは孤独である。スピノザが神の祝福とともにあったとすれば、ニーチェの永劫回帰は、やはり悪魔の呪詛であろう。そしてそれから解放されるには、「それでもなお今この瞬間を、この生を欲するのだ!」という超人的な肯定が必要となる。すべての偶然が必然であり運命であることの受容。ここで語られたことは、スピノザの述べたことと同じである。しかし、やはりニーチェの背中には、「神は死んだ」と看破した男の担う陰が見えてしまう。
 音楽にも、そう言う表現があってもよいのではないか。繰り返す苦しみ、悲しみ、あるいは喜び。それらに翻弄されながらも、力強い肯定によって最後には運命へと昇華する。忍耐と解放を演奏する際には、心を込めるよりも、神とともにあるよりも、ニーチェ的な悲壮を携えるのでよいのではないだろうか。その音楽にはこめられるべき心など存在しない。神は死んだ。しかしそこから導きだされる結末は、それを何回も何千回も望むほどの運命となるのだ。

 本日の結論は、下記3つである。
・他者に心の存在を信じるかのように、音楽に心がこもると信じられるような演奏をする。
・授かった音楽をただ演奏する。我々が心をこめようとするまでもなく、音楽はすでに祝福されている。
・音楽にこめるべき心は存在しない。呪詛と忍耐とともに演奏する。願わくばその先に肯定があらんことを。

後書き
この文章は、人生や音楽に対して回答を与えるようなものではありません。しかし、思索を重ねることの素晴らしさ、自分で何かを抉りだすことの喜びを少しでも共有できていれば、嬉しく思います。

あなたにとって音楽とはどのような存在でしょうか、そこに心をこめるとはどういうことでしょう。そんなことも、ぜひ一度時間をとって考えてみてはいかがでしょうか。

本日の文中で紹介した本は、私の人生観に大きく影響を与えた名著です。内容に魅力を感じた方は、ぜひ原著を手に取ってみてください。

ところで、この文章を書いていて別の疑問が頭をよぎりました。音楽に心を、魂をこめる。この「心」や「魂」って英語で言うとなんでしょうか。soul, spirit, heart, mind... 英語でこの問題を考えるときは、きっと違った観点が生まれるのでしょう。哲学的問いは常に言語の問題とも切り離せない、そんなことも感じます。

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