2022/08/29
私が本当に好きなのは、コーヒーではなかった
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私はコーヒーが好きだ。小学生の頃にブラックコーヒーを飲む父を見て憧れて以来、長きにわたりコーヒーを飲んでいる。父は牛乳を淹れていたようにも思うので正確にはブラックではなかったかもしれないが、いずれにせよ砂糖の入っていない、甘くもなくむしろ苦い液体を痩せ我慢して飲んでいるうちに、いつの頃からか手放せない嗜好品となり、今では甘いコーヒーは受け付けない。
コーヒーは豆の状態で買ってきて、ミルで挽いてドリップする。ドリップはなるべく時間をかけ、ゆっくり淹れる。専門的な器具も知識も持ち合わせていないものの、挽きたての粉を蒸らしながらじっくりと時間をかけたほうが、雑味が少ない好みの味になると経験的に感じている。今ではトンと機会がなくなったが、たまに家に遊びに来ていた友人は「こんなうまいコーヒー飲んだことない」と来るたびにコーヒーをリクエストしてくれていたので、彼が大げさな人間であることを差し引いても、それなりに美味しいコーヒーが淹れられているのでは、と期待する。
ここ数年は在宅勤務が多くなった。対して妻は出社を要する仕事に従事しているため、私が家にいることが多い。リモート会議に参加したり、資料を確認したりしながら、昼過ぎの妻の帰りに合わせ密かに二人分のコーヒーをドリップする。そんな日々を続けていた。
最近子供が大きくなったのに合わせて、妻が勤務形態を変更した。夕方まで帰ってこないようになった。するとどうだろう。なんと私は昼のコーヒーを飲まなくなっていることに気がついた。今まで二人分を淹れていたコーヒーは、一人分に減るのではなく、零になっていた。
今になって気づいた。私が本当に好きだったのはコーヒーではなく、二人で一緒にコーヒーを飲む時間だったのだ。喜んでるくれる妻の顔を見たかったのだ。いったい何時頃に家に着くだろう、と想像しながら二人分のコーヒーを淹れる時間が、香りに気づいた彼女に「コーヒーを淹れてくれたんだ、ありがとう」と言ってもらう瞬間こそが、かけがえのないものだったのだ。
とまぁ格好つけてエッセイ風に書いたここまでが、本文の導入であって、本論はここから。。結局自分が好きだと思っているものは、実はその本質ではない、ということは比較的よく起こることで、最近私が体験したのは、上記コーヒーにまつわる内容でした。『顧客が本当に必要だったもの』と言う、木にブランコを吊るす絵は、もはやミームと化している感もありみなさんもどこかで目にしたことがあるのではないでしょうか。
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